25 Apr. 2019

「戦国時代の終焉、明治の夜明けー功山寺」・・・・・はる

山口県下関市長府にある功山寺は鎌倉時代からの古刹であり、1327年に創建された
本堂は国宝に指定されている。

建立された年が柱に墨書されており、当時のものとして建立年が明確に分かる建築物は
珍しいそうである。

1557年、功山寺で中国地方から九州にかけての名門一族であった周防山内氏の最後の
当主、山内義長(大友宗麟の実弟)が毛利元就の圧迫で自害、山陰に尼子氏が一部の残って
いるとはいえ、長州は毛利氏がほぼ平定したといえる。

この時代は毛利、陶、大友、山内、尼子など群雄割拠、下克上の見本みたいな時代であった。


功山寺は大内義長の自害後、一時さびれたが1602年、初代長府藩主・毛利秀元(毛利元就の孫)
が笑山寺として再興され、1650年、秀元の死後功山寺と改名された。

写真1 功山寺 国宝仏殿


写真2 功山寺 鬼瓦


写真3 功山寺 山門


写真4 功山寺 参道


写真5 功山寺 境内


写真6 功山寺 緑


写真7 毛利家 墓所案内


写真8 毛利家 墓所塀の中


WIKIで毛利秀元を調べてみると、面白いエピソードとして


「毛利秀元が弁当のおかずとして鮭の切り身を持参したら各大名が珍しがって
みんな求めたので失くなってしまった」

と書いてあった。

家光のころの話らしい。
話としては面白いが、少し無理があると思う。

当時、各大名とも財政はそんなに逼迫しておらず、多少高価であっても江戸で買えるものであれば
そんなに珍しい物ではないはずだ。

河村瑞軒が東廻り・西廻りの日本を一周する航路を開発したのは秀元の死後、二十年以上もたって
からである。
これ以降は廻船による流通網が確立して蝦夷地や東北の産物が西国でも容易に手に入るようになった。

それ以前、鮭の産地の大名ならともかく、西国の大名が鮭を持ってきて、全国の大名が珍しさに
寄ってくるというのはおかしいと思う。
かといって、このようなエピソードが残っているのは、これに類する出来事があったに違いない。

と思って長州の名物を考えたが思い浮かばない。
朝鮮渡来のものではないか?

下関は昔から朝鮮とのゆかりが深い。
下関と朝鮮もしくは対馬藩を介しての交易か?
ひょっとしたら禁制品なので鮭にしたのか?

こんなことを考えるのも楽しい。


功山寺は江戸時代、毛利家の霊廟として尊敬と信仰を集めていたが大きく脚光を浴びるのは幕末になって
からである。

1865年8月18日、攘夷一辺倒の長州藩と会津藩・薩摩藩が衝突して破れた長州藩が都を追われた際、
長州に同調していた公家七人が同時に追放されたときである。七卿落ちである。
このうちの五人が功山寺にかくまわれた。

その後、この五人は第一次長州征伐で勝利した幕府の命で福岡の太宰府に滞在することになる。


さらに大きな事件が功山寺で起きる。
1865年1月、高杉晋作はここ功山寺で兵を挙げた。
明治維新の始まりである。

写真9 高杉晋作像


話を少し戻すと高杉晋作は藩内での政争に破れ、長州から脱出して身を隠したことがある。
そのとき晋作を筑前国平尾山荘にかくまい、励ましたのが野村望東尼(のむらもとに)である。


野村望東尼は1806年、福岡藩士の娘として今の福岡市赤坂三丁目あたりに生まれ、福岡藩士に嫁いだが
子どもたちの夭折や夫との死別で1859年、得度剃髪して「招月望東禅尼」となった。

その後、幕末動乱の京都に赴き、時代の動きを直に感じて勤王に目覚め、福岡市平尾に「平尾山荘」を開き、
幾多の志士たちの手助けをする活動を始めた。

写真10  野村望東尼山荘跡(福岡市中央区平尾)
     右側の建物は管理事務所


写真11 石碑と山荘


写真12  平尾山荘


「山荘」と名付けられているが、現在では福岡市の高級住宅地の一角にある。
高杉晋作も望東尼の庇護を受けた一人である。

わずか十日あまりの滞在であったが、望東尼は晋作を励まし、彼は長州に戻って倒幕へ決起するのである。


このころ、福岡藩(黒田藩)佐幕、勤皇で各派に別れ混乱の極みであったが、1865年に佐幕派による
勤皇派弾圧事件が起きる。

乙丑の獄(いっちゅうのごく)と呼ばれる。


藩士ならびに関係者140名以上が逮捕され、7名が切腹、14名が斬首、望東尼以下15名が流罪という苛烈なものであった。

この弾圧は、福岡藩の人材を払底させ明治維新に大きく遅れることになる。


望東尼は、当時、福岡藩の流刑地であった糸島の姫島に粗末な小屋に幽閉された。
年老いて剃髪した女性を殺すわけにはいかない。

写真13   姫島港


写真14   姫島全景


写真15  姫島家並み


写真16  姫島 望東尼史跡入り口


写真17 姫島 望東尼像


写真18  御堂


写真19  御堂と像


写真20  望東尼 獄中歌



1866年9月、晋作の指揮により福岡脱藩士らが姫島から脱出の手引きをし、下関の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われた。

その後、毛利藩から厚遇され高杉晋作の最後にも立ち会い、晋作辞世の句

「おもしろき 事もなき世に おもしろく」

とまで詠んだあと呼吸がせわしくなり、続かなくなったので
望東尼が
「住みなすものは 心なりけり」
と結んだ話は有名である。

望東尼は薩長連合軍の戦勝祈願のために行った断食が祟り 、体調を崩し、1867年11月、現山口県防府市で
62歳で死去した。

明治維新の立役者、薩長のうち西郷・大久保の二大巨頭が早くして亡くなった薩摩に比べ、長州は天寿を
全うした人物が多い。

汚職等で晩節を汚した人物もみられる。
そのなか光芒を放って太く短く生きた高杉晋作は人気が高い。


野村望東尼救出劇は直接、本人が出向かなかったとはいえ、
第二次長州征伐で幕府を打ち破った直後の快挙であり、
高杉晋作の人生のハイライトの一つでもある。


だが、一つ疑問が残る。

福岡藩があまりにずさんなのである。
下関〜姫島は約60海里(=約110km。1海里=1852m)
当時、すでに蒸気船の時代であり、時速5ノット(=時速10km弱)は出る。
下関から姫島まで半日しか、かからないのである。

当時、長崎〜平戸〜姫島〜下関を結ぶ航路は「海の銀座通り」と言えるもので、外国船や各藩の
蒸気船が頻繁に往来していた。
姫島はこの銀座通りに沿って位置し、おにぎり状の山を持ち、遠くからはっきり視認できる島であり、
間違えないようもない島である。

福岡藩も蒸気船を持っており、この位置関係は理解していたはずだ。
姫島は福岡藩の流刑地とはいえ、たやすく救出できる場所に望東尼を置いていたのは疑問が残る。
第一次長州征伐から第二次長州征伐のあいだに急激に情勢が変わり、福岡藩は勤皇派の弾圧を後悔
していたのではないだろうか。

福岡藩と長州藩の「出来レース」までとは言わないが福岡藩は黙認していたとも考えられる。


写真21  地図



姫島の野村望東尼幽閉跡を訪ねると三つの記念碑が並べて建っている。
風雨にさらされて判読しがたいが時代の変遷を見ることができる。

写真22  境内の石碑


写真23  明治32年 その1



写真24  明治32年 その2

最初のは明治32年。

寄付の筆頭にある吉井幸蔵とあるのは元・薩摩藩士である。
薩長ともども顕彰したのであろうか。
第29代毛利家当主・毛利元昭、
伊藤博文、山県有朋の名が見える。

写真25  昭和9年  その1

2番目は昭和9年。

寄付の筆頭に黒田家。
黒田家にとって元罪人である望東尼に何らかの恩義を感じたのであろうか。
次に頭山満、広田弘毅や緒方竹虎の名も見える。

写真26  昭和9年  その2


写真27  明治百年記念

3番目は明治百年を記念したもの、政治色が強い。

寄付筆頭は原田観峰、習字会の大家であり財界・政界に影響を及ぼしていた。
碑文中にみえる進藤一馬は元福岡市長であり、頭山満の流れを汲む玄洋社の最後の社長でもある。



福岡市が管理する福岡市中央区平尾の「平尾山荘」は公園として整備され、
常駐の管理人がいて説明のパンフレットもあった。
姫島の望東尼幽閉史跡は碑文も判読しがたく、島の女性たちがボランティアで清掃していた。


姫島は猫が多かったが、猫も日焼けは嫌いのようである。


写真28  姫島の日焼け嫌いな猫