12 June 2011

長崎訪問 その1  TH
 
 
所用を兼ね先日長崎へ行ってきました。
 
博多−長崎間はJR「かもめ」で約2時間弱です。
 
考えてみれば小学校6年生の修学旅行以来の訪問でした。
当時は大変遠い汽車の旅だったような記憶があります。
 
JRかもめ号(参考画像)
 
 
 
到着後チェックインしたANAグラバ−ヒルホテルです。(HPより拝借の画像)
グラバ−園へ続く坂道に面し、大浦天主堂にも至近の素敵なホテルです。
JRとセットでしたので、大変リ−ゾナブルでした。
 
 
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【出島阿蘭陀商館跡】
 
さて長崎の街をタクシ−で走っていますと、瓦屋根付き塀に囲まれた広い敷地に
比較的新しい、時代劇の町並みのような建物群がありました。
聞けば「出島オランダ商館跡」の復元とのことで、早速行ってみました。
最初デジカメの調子が悪く、( というか操作を忘れ )
以下、帰宅後見た関係サイトの情報(参考画像)も交えてリポ−トしました。
 
 
長崎の歴史といえば何といっても鎖国時代の出島が有名です。
1636年に完成し、その後1641年から1859年までオランダ商館が置かれた扇形の人口島です。
長崎市は長期に渡る復元計画を結実させ、平成18年、出島跡地に当時の建物群を復元し、
現在は観光地として整備されています。
 
長崎港図(部分) 川原慶賀(後述) ロッテルダム海事博物館 
 
 
復元された出島
 
出島は1904年に築港工事のため完全に埋め立てられて消滅したそうです。
現在復元されている敷地は、扇形の幅はほぼ当時のままで、
奥行きがやや狭くなっているとか。
 
 
 
【水門】
出島の西の端(現在の国道に面し、入場口のわき)に立つ水門です。
ここは当時船着場になっており、輸出入品の荷役作業が行われました。(参考画像)
 
 
出島敷地です。周囲はビルが立ち並びます。
 
 
庭園の一角に立派な縮小サイズ(1/15)の出島が造られています。
 
 
 
〈一番船船頭部屋〉
出島の建物はこの様な日本家屋で、白壁の蔵もあります。右端の人はお侍姿。
手前の2階立ては一番船船頭部屋と呼ばれ、オランダ船長や商館員の
宿泊用に使われたそうです。
 
 
2階の居室。(復元家具が新しいせいか、この写真だとちょっと今っぽいですね。)
 
 
(参考画像)
1階には当時、物資を量った巨大な天秤秤がおいてありました。
これはオランダの伝統的な秤で、復元に際してデルフト大学から寄贈されたとか。
 
 
「唐蘭館絵巻 蘭館図 商品計量図」  川原慶賀作  長崎歴史文化博物館
これは「出島出入絵師」の川原慶賀(1786〜1860?)が描いた、天秤秤による物資の計量の様子です。 
この絵師は、出島の商館医で博物学者でもあったシ−ボルトの信任が大変厚く、
植物、動物、魚などの膨大な採集の成果を写生する役割も果たしました。
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/kawaharakeiga/kawaharakeiga.html
 
 
〈ヘトル部屋〉
こちらはヘトル部屋と呼ばれ、副商館長が使用した建物です。
屋根には物見台が付いてます。多分ここから港が一望できるようになっていたのでしょう。
 
 
「唐蘭館絵巻 蘭館図 蘭船入港図」 川原慶賀作   長崎歴史文化博物館
屋根の上の物見台から望遠鏡で沖を見るオランダ人たちです。
よく見ると、遠くに多数の小船に曳航されて、到着の祝砲を打ちながら、オランダ船が入港して来ます。
出島には常時15人程のオランダ人が単身赴任で暮らし、時には長崎で妻子をもうけ、
年に一度の母国船の入港を心待ちにしていたのでしょうか。
ちなみにこの絵の白い服に緑の帽子の男性はシ−ボルト、後ろに立つ青い着物の女性は
妻のたき、抱かれている子供は娘のいねといわれています。
 
 
 
「唐蘭館絵巻 蘭館図 宴会図」 川原慶賀作  長崎歴史文化博物館
当時、バタビア(ジャカルタ)を出航したオランダの東インド会社船の入港は毎年2隻で、
出島滞在は風の関係で7〜8月から11〜12月の4ヶ月間だったとか。
これは無事に長崎に着き、港に停泊中の船を見下ろしながらの食事風景でしょうか。
この絵も、立って肉を切り分ける緑の帽子のオランダ人がシ−ボルト、後に立つ青い着物の女性が
妻のたきといわれているそうです。
 
 
 
〈カピタン部屋〉
 
カピタン部屋と呼ばれたオランダ商館長(カピタン)の住居兼執務事務所        こちらは復元された正面階段です。
 
 
内部の食堂も広く、常時人が出入りしていたのでしょう。
窓枠のグリ−ンのペンキは当時オランダから持ち込まれたそうです。
また壁紙には襖紙が使用されていました。
 
 
こちらはカピタンの豪華な迎賓用大広間です。(やはり畳・・・)
当時の絵を参考にした、「阿蘭陀冬至」(クリスマス)の祝宴のメニュ−の再現とのことです。
 
 
 
〈乙名部屋〉
こちらは「乙名(おとな)」と呼ばれた、出島の事務処理に携わった日本人の役人の詰め所です。
また、オランダ語の通訳「通詞(つうじ)」も常駐していました。
(あくまで日本的なしつらえですね)
 
 
 
〈正門〉
正門は出島に設けられた唯一の出入口で、橋がかかっていました。
昼夜を問わず厳重な検問が行われ、乙名が発行した門鑑を持つものだけが
通行できました。オランダ人も特別な許可なしには長崎の町へ出る事は
出来なかったそうです。画像は出島の外から見た正門です。(参考写真)
 
 
 
〈旧出島神学校〉
この西洋建築の旧出島神学校は安政の開国(1859年)を経て、
出島が外国人居留地になってから建てられた、日本で最初の
キリスト教新教(プロテスタント)の神学校だそうです
建設は1877年(明治10年)です。和瓦で木造。
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旧長崎内外クラブ
長崎内外倶楽部は1899年(明治32)、倉場富三郎(T.B.グラバーの息子)等を発起人として、
長崎に暮らす外国人と日本人の交流の場として設立された社交クラブです。
現在の建物は、1903年(明治36)英国人のF.リンガーによって建てられた英国式の洋風建築です。
当時は、会議室、応接室、遊技場、図書室、食堂、バー等がありました。
手前はオランダ船のマストを再現したものです。
 
内部の重厚な建具類です。考えてみると当時の洋館を指示通りに立派に造ったのは
日本の大工さんや建具職人さんでしょうか。偉い・・・。
 
 
出島は歩いてみて判ったのですが、想像を超えて狭いのです。
日本武道館と同じ面積だそうです。
でも日本史上大変ユニ−クで重要な場所です。
そして長崎の町にも魅力が一杯詰まっています。
 
以下ゆっくりとリポ−トさせてもらいます。
 
 
―続く―