28 July 2015



5月連休の旅(7)  古代出雲歴史博物館



出雲大社の東に隣接した古代出雲歴史博物館に行ってみました。
山を背景にした広い敷地に2007年に開館した近代的な建物が建っています。




入ってみましょう。




山に霧がかかり始めました。
新緑の中、石畳のアプローチがまっすぐに伸びています。




博物館のカフェでひと休みしました。
ガラス張りのモダンな建物です。
広々とした景色が楽しめるようになっていました。




このあたりでとれる赤い古代米が珍しく、ついテイータイムのつもりが・・・。

                          参考画像




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まず古代出雲の珍しい古墳に関する展示をご紹介します。



《四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群》
1953年発掘 弥生時代後期後半(2、3世紀頃)



「四隅突出型墳丘墓」は聞きなれない古墳の名前ですが、
弥生時代後期後半(2、3世紀頃)に作られ、
山陰・吉備(岡山・広島)・北陸に分布しています。
中でも出雲市の西谷や安来市の荒島に大規模な墳墓群があります。

                          参考画像


この古墳は四角い墳丘の四隅が舌状に張り出したユニークな形で、
斜面には石が張り付けてあります。
傾斜の緩い舌状の張り出しは頂上への通路だったようです。

展示されている模型は出雲市近郊の西谷墳墓群3号墓2世紀後半頃
30m X 40mという巨大さから
王墓としての性格を持っていたと考えられており
卑弥呼が登場する前の時代の事でした。

西谷墳墓群3号墓の模型  弥生時代2世紀後半頃



こちらは実際の西谷3号墓の画像です。
頂上には祭祀の跡地があり、勾玉や鉄剣の副葬品もあり、
出土した土器の形状から被葬者が吉備や北陸と交流を持っていた
権力者であることが明らかになりました。

                                                                                        参考画像


この形状の墳墓はやがてヤマト勢力に押されて衰退し
古墳時代に広域に残された前方後円墳も、出雲一帯にはほとんど築かれませんでした。




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1984年(昭和59)から1996年(平成8)にかけて
出雲市では弥生時代の青銅器に関して、非常に大きな2つの発見がありました。
神庭荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡の展示をご紹介しましょう。

    実線 2400年前の海岸線
点線 現在の海岸線
参考画像 http://inoues.net/study/bunkaten.htm



《神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡 青銅器》国宝
1984(昭和59)出土  弥生時代中期後半〜後期始め(BC2世紀〜AD1世紀)


1984年(昭和59)、出雲市斐川町の細い谷の傾斜地から
358本の銅剣一度に出土しました。
一ヶ所からの出土としては過去最高とのことです。
当時日本での出土総数が300本程度だったそうなので
いかに大きな発見だったか想像できます。

銅剣は下記のように土の中に4列に丁寧に並べられており
総て出雲形銅剣と呼ばれる全長50cmほどの中細のものだったそうです。

参考画像 http://www.izm.ed.jp/db/osusume.php



そして翌1985年に、わずか数m離れた同じ場所から
6個の銅鐸16本の銅矛出土しました。
銅鐸は小さめで25cmほどの古い時代のもの、
銅矛は70〜80cmで北九州産と考えられています。

参考画像 https://ja.wikipedia.org/wiki/荒神谷遺跡



銅剣や銅鐸・銅矛は山の斜面に整然と並べられて埋納されていました。
現在は発掘当時の状況がレプリカで再現されています。
(左が銅剣、右が翌年発掘の銅鐸・銅矛です)

参考画像 http://bell.jp/pancho/travel/izumo/kojindani%20iseki.htm



展示された銅剣を観てあらためて驚嘆しました。
ケースに寝かして置いてあるのが実物で
立ててデイスプレイしてあるのがレプリカです。
青銅器は新しいものは黄金色なので当時もこんなだった事でしょう。
すごい!




こちらは翌年発掘された6個の銅鐸(レプリカ?)です。
銅鐸は朝鮮半島で使われていた祭祀用の小型のベルが
弥生時代の日本で独特に発達したものと考えられているそうです。






《加茂岩倉遺跡 銅鐸》国宝
1996年(平成8)出土 弥生時代中期後半〜後期始め(BC2世紀〜AD1世紀)


1996年(平成8)に島根県雲南市の農道工事中に
一ヶ所の出土としてはそれまで最多の39個の銅鐸が発見されました。




この存在感、素晴らしいです。
高さは45cm程です。




鹿の文様でしょうか。
この文様は他の地域の銅鐸には見られないので
出雲周辺で造られたのではないかとされています。




これまで山陰は
九州を中心とした銅剣・銅矛文化圏と、近畿を中心とした銅鐸文化圏が重なる
はざまという位置付けでした。
ところがこれら二つの遺跡から出土した多種類の青銅器のおびただしい量から
古代出雲は弥生時代の青銅器を自ら製作する技術を持ち、
近畿地方や北部九州と同じほどの大きな勢力を有していたのではないか
という認識に変わりつつあるそうです。

それにしても依然謎は残っています。
祭祀用の青銅器がなぜこんなに整然と大量に土中に埋納されていたのか。
その理由はまだ解明されていないようです。

両遺跡の貴重な出土品は国宝に指定されています。

ちなみに博物館としても気合が入っていてこんな掲示が・・・。





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《出雲出土の埴輪》


これらの埴輪は古墳に埋納されていたものです。
左端のユニークな形の土器は葬送のためのものだそうです。




ところで出雲の埴輪には鹿も見られます。
こちらは「見返りの鹿」だそうで、可愛い!

参考画像 「平所遺跡出土 埴輪群」      八雲立つ風土記の丘資料館





《上塩冶築山(かみえんや つきやま)古墳 副葬品》
大正期に出土 古墳時代後期 6世紀後半


出雲市の上塩冶築山古墳から出土した冠、剣、馬具を
出雲の首長が装った姿を想像した復元像です。
これらの品は大和朝廷への奉仕に対して与えられたものと考えられています。
この頃には出雲勢力は大和朝廷に従属していたようです。








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それでは最後にこの博物館に隣接した出雲大社の建造物に関する展示です。

出雲大社の起源はしばしば
ヤマトの勢力から国譲りを迫られ、併合された出雲勢力の恨みを
鎮めるための祀りであるといわれています。

出雲の大国主尊(おおくにぬしのみこと)の
「我が住処を皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、
そこに隠れておりましょう」という意向に沿い、祟りを抑えるために
造る建物の高さに大変なエネルギーが費やされたのであれば
当初の建物の高さは
古文書類に伝えられる様に、今の8丈(24m)よりももっと高かったかもしれません。

その辺に興味を感じながら展示を観ました。
別に神社オタクじゃないんですけど、ちょっと詳しくなりすぎました点
どうぞご放念下さい。
出雲大社を詳しく見なきゃ、こんなに遠くまで来た甲斐がないじゃありません?




《  3本束ねの巨大柱:宇豆柱(うづばしら)の展示 》重要文化財
鎌倉時代 1248年


事のはじめは出雲大社の八足門の横の社務所に
地下室を増築する際の事前調査だったそうで
ピンクで描かれたのが3本束ねの巨大柱が埋まっていた場所です。




こちらは発掘現場の模型です。




掘り出された3本のうち、棟を支える「宇豆柱」
博物館の中央ロビーに展示されていました。
3本束ねの直径は3mにもなり
出土した時と同じく、人の頭ほどの大量の石に埋まっています。




その後の調査により
発掘された柱の位置や大きさは
出雲大社に伝わる平面設計図である「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」の
巨木3本を鉄の輪で束ねた柱の図とも
ほぼ一致していたそうです。

そして、柱の放射性炭素や年輪、一緒に出土した柱建て儀礼の際の土器、当時の絵画等から
柱の遺構は、ほぼ鎌倉時代の宝治2(1248)年に造営されたものという事になりました。

この図でもう一つ注目されたのは
本殿の階段部分の張り出しに「引橋長一町」と書かれていたことです。
一町は109mですからこれが本当なら巨大本殿ということになり
『雲太(出雲大社)和仁(東大寺大仏殿)・京三(平安京大極殿)が、高い建物のトップスリーである』
と記述した平安時代970年の古書「口遊(くちずさみ)」も話題にのぼりました。
当時の奈良の大仏の高さは45mだったので、
本殿の高さは社伝にも伝わる通り、16丈(48m)だっただろうという訳です。

金輪御造営差図 鎌倉時代 千家家蔵 参考画像



下図の「出雲大社并神郷図」は1248年の 本殿を描いた最古のものとされています。
右上の大社と書かれているのが本殿で、まさにこの建物だろうということです。
白木のイメージが強かった大社が朱塗りに描かれているのはちょっと意外でしたが。

                    参考画像
出雲大社并神郷図 鎌倉時代 1248年 島根県古代文化センター


博物館はこの柱が支えていた本殿の実像に迫るため
5人の大学教授に本殿の推定復元模型の製作を依頼し、その作品が展示されていました。
参考資料の解釈は個々の設計者に委ねられた結果、
出来上がった5つの模型(50分の1)は皆異なっていた点が大変興味深かったです。

確かに3本柱の地下の残存部分が出土しただけでは
48mもの高さや109mも階段が張り出した巨大本殿がその上にあった事にはならず、
まだ多くの未解決の謎が残っている事を、この種々の形状の模型が物語っているようです。

左端の模型の作者は巨大な柱が出土しても、48mの高さは無理と考えたのでしょう。
また、109mも張り出した階段を付けた人も2人だけです。
気長に決定的な証拠の出現を待ちたいものです。




会場には大変人目を引く、別の巨大な白木の模型(10分の1)も置いてありました。

これは故・福山敏男京大名誉教授(1905年〜1995)が戦前に
古図にある本殿の3本束ね柱、1町(109m)の階段
そして平安時代の記述にある16丈(48m)の高さに着目し、
10世紀(平安時代)の本殿を想定して当時設計した図面を
大林組が復元設計(1980年代)し、1999年に模型にしたものです。
(因みに博士は焼失後再建された現在の拝殿の設計者です。)

そして完成の翌年2000年に古図通りの3本束ね巨大柱が実際に出土
一気にこの模型も現実味を帯び、クローズアップされたのでした。
当時博士のほか誰も推測しなかった本殿の姿という点で貴重な模型です。




大林チームはこの設計にあたり、
3本束ね柱の隙間に材木を詰めて丸い柱を造る方法を推測し、
また出雲大社の地盤を詳しく調査して
平安時代から鎌倉時代の200年間に本殿が7回も倒壊し、
1031年には風もないのに倒壊したという記録を挙げ
原因を階段と建物の接合が地盤の弱さでズレを生じたためとしながらも
16丈の本殿を建てるのは可能だったはずで何度も建てたからこそ倒壊したのではないか
と結論付けています。

こちらは大林組チームによる本殿の想像図です。
平安時代の当時は海岸線が神社の近くまで迫っていたという地形もあって
思い切りロマンあふれる作品になっています。

参考画像 http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/izumo/p01.html




では最後に江戸時代の慶長、寛文、延享年間の境内の模型の展示や絵を見ながら
今の本殿に至る変遷を見ていきましょう。



《慶長期の出雲大社》
江戸時代 1609年(慶長14)


こちらの「杵築大社近郷絵図」は1609年(慶長14)に豊臣秀頼によって
造営された境内と本殿の様子を描いたものです。
「出雲大社」の呼称は明治になってからで、
それ以前は「杵築(きづき)大社」と呼ばれていました。

杵築大社近郷絵図     古代出雲歴史博物館蔵 参考画像



朱塗り、黒漆塗り、彫刻などの華美な桃山様式による社殿は
神仏集合に基づき、三重塔や鐘楼などが建ち並ぶ仏教色の濃い景観になっています。
三重塔はすでに室町時代に出雲国主の尼子氏により建立されていたものです。

本殿の高さは19.6mと現在よりも低く造られましたが
これは戦国時代に疲弊してもっと低くなっていたものを
費用をかけて高く立派にしたものと思われます。
本殿の大社造りは保たれています。

こちらは展示されていた慶長期の出雲大社の模型です。





《寛文期の出雲大社》
江戸時代 1667年(寛文7)


寛文年間の1667年、本殿と境内の大規模な建て替えが
江戸幕府から莫大な援助を得て行われました。

この時期になると、それまでの神仏集合の方針が大転換され
神仏分離に基づく唯一神道を復活させるという神社の意向が
幕府に受け入れられ
現在の簡素で壮大な景観に近付きました。

              参考画像
杵築太社境内絵図 1667年(寛文7)後 千家家所蔵

上図には、仏教寺院の象徴である朱塗りの三重塔は描かれていません。
実はこの寛文の造営に当たり、大社に御神木の妙見杉を納めた但馬の名草神社
返礼として移築され、今も「杵築の塔」と呼ばれて境内で350年近く守られています。




こちらは展示されていた寛文期の出雲大社の模型です。





《延享期以後の出雲大社》
江戸時代 1744年(延享元年)


現在の出雲大社は
この延享の造営1744年(延享元年)の際に建造されたもので、
4回の遷宮を経ながら、270年間今の場所に建っています。

こちらは約130年後の、1875年(明治8)頃の境内の図です。
ただ、拝殿は1953年に消失していますので
この図は焼ける前の姿ということになります。
そういえば屋根の形が現在とは違いますね。

「出雲大社絵図」  明治8年頃作成  重要文化財  参考画像



こちらは現在の出雲大社の境内です。
大社造りと檜皮葺が経年によって荘厳さを増しています。
本殿の高さは8丈(24m)ですが
このくらいが安全で妥当な高さなのかもしれませんね。

                 参考画像

博物館の本殿の高大さに関する展示を通して
出雲の人々の太古からの信仰の深さを感じることが出来ました。




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さあ出雲大社をあとにして、今夜の宿泊地へ急ぎます。
再び一畑電車で一路「松江しんじ湖温泉駅」まで・・・
といっても途中で乗り換えなければなりません。

これほど有名な観光地にもかかわらず、
とにかく電車は便数が少ないのです。(1時間に1本ぐらい)
ところが次第にこの不便さも楽しくなって来ます。
乗務員のお姉さんはとても親切で、車窓に見えるメロン栽培や
ワイナリーの説明をしてくれました。

こちらの新しい車両は「出雲ばたでん楯縫(たてぬい)号」と命名されており
京王線を引退して当地に来た車両をきれいにリフォームしたものです。
「楯縫」というのは、天平の頃に出雲にあった群の名前だそうです。
「ばたでん」は一畑電車の略称。




夕食タイムです。島根牛を頂きました。




旅も何とか無事に3日目を終えほっとしています。
穴道湖の夜景です。
夕方は曇っていましたが、月も出て晴れて来たようです。

それではまたあした。



ー続くー