07 Mar. 2018

「12世紀ルネサンスとフリードリッヒ二世」・・・・・k.mitiko

<歴史よもやま話> 

 

アテナイの学堂  ラファエロ

ルネサンスと言えばレオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロなど絵画に

代表される壮大な文化運動をイメージしますが、それが西欧の歴史のなかで

どのような過程を経て花開いたのか、振り返ってみたいと思います。

 

 

プリマヴェーラ(春)  ボッティチェッリ

ルネサンスはギリシャ、ローマの古代文化を理想として、それを復興させ

新しい文化を生み出そうとする運動で、思想、文学、美術、建築など多方面

にわたった活動は、14世紀のイタリアに始まり、やがてフランス、イギ

リスに広がり西欧の近代化の原点となりました。

 

 

西洋史で通説のように言われていた「暗黒の中世」や「ギリシヤ以来30

00年の西欧文明」は現代では否定されつつあり、14世紀のイタリアル

ネサンスの引き金になった12世紀ルネサンスについては研究が進み、私

も大いに興味を持ちました。

 

 

古代ギリシャ文明の中で重要なギリシャの科学や哲学などの学術は、ギリ

シャ語を用いる東方のビザンティン文明圏(東ローマ帝国)を経由して、

アラビアの方に入っていきました。

 

 

ギリシャの文化学術の一番いいものは古代ローマに伝わらず、西欧世界で

はいったん途絶えていました。

 

 

ハルン・アッラシード王

12世紀になって西欧はビザンティン、アラビア、を介してギリシャの

科学や数学など第一級の学術と出会い、アラビア語を一生懸命勉強して、

アラビアの科学や哲学の文献をラテン語に翻訳し、ギリシャやアラビアの

進んだ学術を取り入れていきました。

 

 

 

ハルン・アッラシード王

ビザンティンに伝わった古代ギリシャの優れた学術は、イスラム教の登場

とともにアラビアに引き継がれ、「アラビアンナイト」でも有名な8世紀

のハルーン・アッラシード王とその息子の時代にバクダードには、「知恵

の館」と称する研究所がつくられ、大規模な図書館や天文台を付設し、多

くの学者、文化人を集めて研究を行わせました。

 

 

 

散逸していた古代ギリシャの多くの文献を集め、それをアラビア語に翻訳

する事業の成果によって11世紀にはアラビアの学術は頂点に達し、アラ

ビア文化の黄金時代を築きました(アラビアルネサンス)。

 

 

 

このように隆盛したアラビア学術をやがて十字軍や北イタリアの海洋国家

の通商、交易をとおして西欧がとり入れることになります。

 

 

 

その中心となったのはスペインとイタリアで、中でもシチリア島は地中海

の中心に位置する最大の島で、交通と地中海の要衝の地として「文明の十

字路」と言われていました。

 

 

 

パレルモ

古くからのギリシヤの殖民地であり、ギリシア、アラビア、ラテンの三文化が

共存して繁栄していましたが、中でもパレルモはノルマン、ギリシャ、ビザンツ、

イスラームの文化を融合させた独自の都市文化が花開いていました。

 

 

 

フリードリヒ二世

シチリアのフリードリヒ二世(シチリア王、神聖ローマ帝国皇帝13世紀

 )は、大変なアラビア文化の愛好者で、第五次十字軍にも参加しますが

、その狂信的な戦いには批判的で、パレスティナにおけるキリスト教国と

イスラム教国の共同統治というきわめて独創的な解決をしたため、それま

で聖地は血で獲得すると言う固執した考えのローマ法王から破門されてし

まいました。

 

 

 

フリードリヒ二世

フリードリヒ二世はイタリア語、ドイツ語、アラビア語など数カ国語をあ

やつる知識人で、戦いでなく交渉によって聖地奪回を果たした英明な君主

として年代記では「世界の驚異」と賞賛されています。

 

 

 

 

フリードリヒ二世

シチリア王国の都パレルモの宮廷ではイスラム教徒が重要な役割を果たし

、他の都市にも多くのイスラム教徒が居住してキリスト教徒、ギリシャ正

教徒と共存していました。

 

 

 

フリードリヒ二世は封建制度の西欧で高度な官僚制を持つ国家を目指し、

イスラムの文化を取り入れていきました。

 

 

ラ・メスキータ(スペイン コルドバ)

パレルモにはギリシャ語からアラビア語に翻訳された古典古代のギリシャ

の文献が伝えられており、アラビア語からラテン語への翻訳がおこなわれ

ていました。その文献を求めてヨーロッパ各地から修道士がシチリア島を

訪れ、パレルモは一大研究都市となっていました。

 

 

 

アルハンブラ宮殿(スペイン グラナダ)

同じような動きはスペインのトレドなどでも見られ、中世ヨーロッパの新

しい文化の発信地となり、フリードリヒ二世の治世下ではローマ文化、ゲ

ルマン文化、ビザンツ文化、イスラム文化が融合した独特の南イタリアの

文化が開花しました。

 

 

 

ラ・メスキータ

スペインのトレドやアンダルシヤ地方でも同様な活動があり、いずれも中

世ヨーロッパでの新しい文化の発信地となりました。

 

 

 

フリードリヒ二世時代の金貨

この動きは、文化史上の12世紀ルネサンスと言われ、イタリアをはじめ

各地に地殻変動を起し、14世紀ルネサンスの土台となっていきました。

 

 

 

カステルデルモンテ (フリードリヒ二世築城)

「世界の驚異」「玉座上最初の近代人」と称され、早く生まれすぎた天才

フリードリヒ二世はイスラム文化を受容することで法王庁と対立し、三度

破門されましたが、それにひるむことなく学問や詩作に情熱を燃やし、自

らも近代的な鳥類学書を書き、その宮廷は文化の中心になりました。

 

 

 

 

19世紀に描かれたフリードリヒ二世の宮廷

そしてその活動は12世紀ルネサンスを14世紀ルネサンスへと引き渡す

役割を担い、後の西欧の文化や国家の形成に大きな影響を残しました。

 

 

 

アッシジの聖フランシスコ

塩野七生氏は14世紀ルネサンスの礎を創ったのは、アッシジの聖フランシ

スコとフリードリヒ二世と述べています。聖フランシスコは、神と出会う

場である教会は豪華で飾り立ててはいけないが、文字の読めない多くの人に、

聖書に書かれている事柄を理解させる必要からフレスコ画を奨励しました。

 

 

 

聖母子像 ラファエロ

聖フランシスコがいなかったらフレスコ画も普及しなかったと言われています。

これがやがてラフアエッロ、ボッティチェッリなどルネサンス絵画への道を

切り開くことになります。

 

 

 

ラ・メスキータの壁

「12世紀ルネサンス」の著者伊東俊太郎氏は

「西欧文明が自らの文明の祖先だとしている古代文明を十分に取り入れるのは

12世紀にビザンチンやアラビアの先進文明圏からでした」と述べています。

また「西欧文明なるものの形式そのものが、このような異文明圏を通して

初めてかちとられたものであることを忘れてはならない」とも述べています。

 

 

 

アルハンブラ宮殿

これらの文明の漂流していく姿を知って、私はあの壮大なルネサンスの基

を創り出した12世紀ルネサンス、その源となった古代ギリシャ文明の偉

大さをあらためて認識しました。

 

 

 

カステルデルモンテ 世界遺産

西欧世界のひとつの大きな転換期であった12世紀ルネサンスを知りえた

ことは、私にとって歴史の奥深さと人間の英知の素晴らしさにあらためて

感動し、未知の世界を知る大きな喜びになりました。

 

 

参考資料

12世紀ルネサンス  伊東俊太郎

中世シチリア王国   高山博

物語イタリアの歴史Ⅱ 藤沢道郎

ルネサンスとは何であったか 塩野七生

皇帝フリードリヒ二世の生涯 塩野七生