02 Mar. 2018


2015年11月 琵琶湖周辺の旅(5)彦根城 玄宮楽々園 埋木舎


【彦根城】

T.H.

彦根城の入場券売り場です。雨模様のせいか空いているようです。





「井伊直弼生誕200年祭」の
ひこにゃんのフラッグが下がる入場口です。





彦根城譜代大名筆頭の家柄を誇った、彦根藩井伊家35万石の居城です。
初代藩主の井伊直政から14代直憲までの260年間、国替えにも遭わず、
幕府の大老を5回務めるなど、徳川家に多大な貢献をしました。

井伊家の先祖は、中世の間
遠江国井伊谷 (いいのや) (静岡県浜松) を治めた豪族で
戦国時代には今川氏の支配下にあり、跡取りの直政が幼少の頃には
父の直親をはじめ一族の男子の多くが、戦乱や、今川に加担した家老の裏切りなどで
命を落とし、一族は没落していました。

直政はゆかりの寺にかくまわれて成長し、
出家の身で井伊家を取り仕切っていた、
二郎法師直虎を後ろ盾に
1575年、15歳で徳川家康の小姓となります。

その後は家康の引き立てにより、徳川四天王に数えられるまでに出世し
関ヶ原の戦いでは戦功として、18万石と近江の重要拠点の佐和山を与えられ
西軍の指揮官だった石田三成の居城、佐和山城に入りますが
1602年に戦傷がもとで他界しました。


彦根藩初代藩主 井伊直政像(1561〜1602年)


参考画像 彦根城博物館蔵



後を継いだ次男の2代直孝は
家康の援助のもと、直政の望んだ琵琶湖のほとりに築城を開始します。
こうして1622年、金亀(こんき)山に天守を戴き、
城郭や表御殿の造営をはじめ、城下町の町割等も整備された彦根城が完成しました。

直孝は大阪夏の陣で活躍するなど、加増を続け
1633年には35万石となり、
そののちも徳川秀忠、家光、家綱の三代にわたり将軍の執政となって
幕藩政治の確立に貢献しました。



《表門山道》

本丸へと続く階段状の山道を歩きます。
ご覧のように段の踏み面が広く、意図的に疲れやすいように出来ています。
我慢、我慢・・・。






《天秤櫓 重要文化財

山道を登りきると、高石垣の上に建つ天秤櫓が現れました。





いつの間にか、私たちは高石垣に挟まれた深い谷間(堀切)にいました。
左が鐘の丸の石垣で、右が本丸に続く太鼓丸の石垣で
両方の石垣を結んで巨大な木造の廊下橋が架かっていました。
非常時には敵が渡れないよう落とされる仕掛けになっていたとのこと、
城が要塞だった戦国時代の光景を見る思いがしました。

また、迎え撃つ場合に鉄砲の火縄が雨で濡れないよう、
橋には壁と屋根が付いていたそうで
このような橋が残っているのはここだけだそうです。





天秤櫓に上がるためには、橋の下をくぐって
左の石垣から鐘の丸へ上がり、廊下橋を渡ります。





こうして人と比べると、橋の高さがわかります。





正面から見た天秤櫓です。
中央の門から左右に長屋が伸び、両端に2層の櫓がある形が
天秤のように見えることから、その名がついたそうです。

日本の城郭でこの形式のものは今は彦根城だけで

秀吉が1573年に築いた長浜城から移築されたものだとのことです。





天秤櫓の高石垣は左右で積み方が異なっています。
こちら右側の築城当時の石垣は、越前の石工達が築いた牛蒡積み(野面積みの一種)で
一見無造作に見えますが非常に堅牢なのだそうです。





左側は幕末1854年の大規模な改修による落し積みだそうです。
石が加工され、隙間なく積まれています。





櫓の窓の縦格子は、弓や鉄砲で、敵を狙いやすくするため
菱形になっています。





天秤櫓の上から見た廊下橋です。向こう側は鐘の丸。





窓から石田三成の居城があった佐和山も見えました。

関ヶ原以降、家康は常に、大阪の秀頼と豊臣恩顧の大名の接近を監視し
交通の要衝でもあり、軍事や政治の上で重要な拠点だったこの地を
井伊直政に与えました。

直政の死後、彦根城の築城にあたっては、名古屋城と同様、
新しい徳川政権の権威を示すため、天下普請の方針が取られ、
幕府から普請奉行が差し向けられ、築城の労働力は諸大名に提供させました。





早期に監視体制を確立する必要から工期も短縮され、
佐和山城をはじめ、長浜城や大津城の建造物が彦根城に移築されました。
特に佐和山城の石材や部材は悉く建設資材となり
現在遺構はほとんど残っていないそうです。
今回は行けませんでしたが、下の画像は佐和山城跡です。


参考画像



《 時報鐘(じほうしょう)

城全体に時を知らせる時報鐘という鐘楼がありました。
今も定時につかれているとのことです。
12代直亮の時、より美しい音色にしようと、
鋳造の際に大量の小判が投入されたという逸話が残っているそうです。





石垣の向こうに、天守が見えて来ました。






《 太鼓門櫓 (重要文化財)

こちらは本丸への最後の関門である太鼓門櫓で、
佐和山城から移築されたと言われています。
この門、こちら側には見た通り、漆喰の壁がありますが、





背面に回ると壁が無く、柱と高欄だけの廊下になっています。
これは櫓内で叩く太鼓の音を、広く城内に届かせるためということです。
なるほどこの廊下は場内の中心部を向いていました。



参考画像




《天守 国宝

太鼓門櫓を過ぎると天守が目の前に現れます。
大津城から移築されたといわれ、1607年頃に完成しました。
こちらは正面の南東側です。
小ぶりな天守ですが、変化に富んだ破風や、美しい曲線の花頭窓
華やかに配置されています。





特に唐破風のひさし周りに、金色の千鳥が飛んでいるかのように
ちりばめられた(懸魚・けぎょ)がお洒落です。





斜めから天守を見ると、さらに破風の並びが複雑になり、豪華になります。
右側には付櫓があり、天守への出入り口もこちらにあります。





それでは付櫓から天守へ上がります。
天井の梁のこの曲線! 材木を固定させるのが大変だったことでしょう。





幕末の大老を務めた、13代藩主井伊直弼の像が
展示されていました。





板張りで中央はがらんとしています。





望楼から見る彦根の町です。
琵琶湖の水運や、主要な街道へのアクセスにも恵まれています。
こうして平地に城下町を造って発展させ、
その中の小高い山に城(平山城)を造るというのが
平和な江戸時代のお城の主流となって行きました。





来た道とは反対側の山道を散策することになり、天守の裏手に回りました。
こちら南西側は天守の幅が広いので、どっしりとした安定感があります。
花頭窓も5つ並んでいます。
こうしてみると、見る方向で異なる雰囲気を楽しむことができる天守です。





北側からの表情もなかなかいいです。
こうして天守の裏道を降りて行きました。






《黒門山道》

本丸の古い石垣伝いに黒門山道を降りて、黒門跡まで歩きます。
こちらは途中の井戸郭(くるわ)門跡です。





扇勾配(おうぎこうばい)と呼ばれる、美しい曲線を描く高石垣は、
屏風のような出入りを幾重にも連続させて本丸を囲んでいます。
こうした石垣の連なりは初めて見るものでした。




やがて黒門跡を経て、堀を渡り、本丸を後にしました。




【玄宮楽々園】


江戸時代も次第に平和になってくると、彦根城にも優雅な御殿や庭園が造られます。
玄宮楽々園は4代井伊直興により
藩主の家族が住む上屋敷として、1677年に造営され、
趣向を凝らした総槻(けやき)造りの御殿は、人々を驚かせ、槻御殿と呼ばれました。

現在は御殿部分を楽々園、広大な庭園部分を玄宮園と称しています。


航空写真 参考画像



《楽々園 槻御殿》

下図の通り、槻御殿の現存部分はごく僅かで
往時は広大な御殿であったことがわかります。


参考画像


1815年、幕末の大老を務めた13代井伊直弼が
11代藩主直中の14男としてこの槻御殿で生まれた時、
直中は既に隠居しており、兄12代直亮が家督を継いでいました。
直弼が藩主となる可能性は殆ど無く、17歳までここで
父の文化的素養に触れながら平穏に過ごしたといわれています。

御書院の建物です。この日は改修工事中だったため、遠くから見学しました。






《玄宮園》

楽々園に隣接する玄宮園に来ました。
玄宮園は唐の玄宗皇帝の離宮になぞられて作庭された
池泉回遊式大名庭園です。

入り組んだ池に島や橋を配し、
水辺には趣のある庵が建っています。
楽々園の方を見ると、池の対岸に先ほどの御書院が見えています。
きっとあちらのお座敷からも、この庭園を愛でられたのでしょう。
段々晴れて、明るくなってきました。





臨池閣

高いところにそびえる彦根城天守を借景にした、玄宮園の有名な撮影スポットです。
池に張り出して建っている、茅葺の小さな2つの建物は臨池閣です。
藩の接待に使用され、今は八景亭という小さな旅館になっています。
見れば、昨晩我々が夕食をとった部屋は右の建物だったらしく、
外は雨降りで暗かったとはいえ、知らずに過ごしてしまいました。
外の景色が楽しめるランチのお客の方が多いのもうなずけました。





玄宮園から望遠で撮った天守です。
高石垣の上に位置した天守は、こちら側からのみ見ることが出来ます。
付櫓や長い多聞を手前にした天守も見応えがあります。










池の周りを巡るにつれ、島や橋が現れて景色が変わって行きます。










お天気も秋らしくなり、この橋の付近では紅葉を見る事ができました。





鳳翔台(ほうしょうだい)


築山に建つ、趣のある建物です。
かつては藩主が客人をもてなすための客殿でした。






龍臥橋

龍の背中のように見えるといわれ、大小の橋が繋がっています。





本当は屋形船にも乗りたいところでしたが、時間の関係で割愛しました。
次回を楽しみにしたいと思います。

玄宮園を出るところです。
昨夜はこの前を恐々通りました。





昼間は素敵なお堀端の道でした。






【埋木舎 うもれぎのや】

彦根城の佐和口御門を出ると、中堀に面して静かな通りが続きます。
空がまた曇って来ました。





この一角にひっそりと建つ質素な屋敷が、埋木舎(うもれぎのやです
幼少期に母を、17歳で元藩主の父を亡くした井伊直弼が、
藩の掟に従い、槻御殿を出て、藩の公館だったこの屋敷に移り
部屋住みとして15年間を過ごしたところです。
兄弟も多く、母が側室であった直弼は、300俵の扶持を受けながら
養子や出家の話を待つ、という身の上になったのでした。

直弼は次の和歌を詠み、自らの屋敷を「埋木舎」と命名しています。

世の中を よそに見つつも埋れ木の 埋もれておらむ 心なき身は


一生を埋もれて過ごすという失意のうちにも、直弼は無為に過ごすことなく、
禅、国学と和歌、能、鼓、居合、馬術、焼き物、茶の湯などを
自らに課しながら、なすべき研鑽に明け暮れたとのことです。

15年の月日が流れた32歳の時、藩主であった兄の世子が他界し、
直弼は思いがけなく後継として兄の養子に指名され、
埋木舎を出て江戸に向かいました。

4年後には兄も他界し、直弼は36歳で13代彦根藩主になったのでした。
そして8年後の1858年、直弼は江戸幕府の大老に就任し
アメリカ合衆国との間で修好通商条約を締結しますが
2年後に桜田門外で暗殺され、46歳の生涯を閉じました。

こちらが埋木舎の表門です。車が駐車していましたので参考画像です。





埋木舎の見学は木々に囲まれた庭先からでしたが
この日は中でお茶会が開かれていて、一部のお部屋は戸が閉まっていました。





こちらを回って庭先へ





パネルの展示で、船橋聖一が小説「花の生涯」で、井伊直弼を描き、
昭和38年、大河ドラマの第1作目となったことが思い出されます。
尾上松緑、佐田啓二、淡島千景・・・。










このほか客人を迎える表座敷、日常生活や勉学に励んだ奥座敷、茶室などもあるとのこと。

紅葉し始めたお庭の様子です。













今回彦根で見聞きして、意外に思ったのは
幕末の激動の中で、強権的な政治を行ったことで知られる井伊直弼が
茶の湯を極めた大名茶人であったということです。


井伊直弼(1815〜60年) 清涼寺蔵 参考画像


直弼は石州(せきしゅう)流の一派を創設し、藩主になってからも研鑽を積み、
著書「茶湯一会集(ちゃのゆ いちえしゅう)の序の部分で
茶の湯にのぞむ主客の心得を「一期一会」の言葉を用いて提唱しています。


茶の湯の交会は、一期一会といひて、例えば幾度同じ主客交会するとも、
今日の会に再びかえらざることを思えば、実に我が一世一度の会なり
(茶の席で同じ人と向き合うことになろうがこの機会は一度限りのものなので大事にしなければならない)


直弼はこの著作に幾度も推敲を重ね、大老就任の前の年に完成させたとのことです。


茶湯一會集」
 彦根城博物館蔵 参考画像



JR彦根駅前に井伊直政の像がありました。
この旅行で彦根を訪れたのは2015年の秋で、
2017年の大河ドラマおんな城主直虎が放送される2年前でしたので
観光地に特別な動きはありませんでした。
それでも彦根における井伊家の存在は、絶大である事を感じ
ある意味感心して帰ってきた次第です。




彦根駅を後にして、最後の訪問地へ向かいました。


ー続くー