18 Dec. 2017

2017年11月連休 福井と金沢の旅 (1)一乗谷朝倉氏遺跡 


11月2日(木)、夕方のひかり523号で東京駅を出発しました。




最近ずっと、JRジパング倶楽部のひかり利用派です!



途中、米原で北陸本線の特急「しらさぎ」に乗り換えます。




JR福井駅に着いたのは、夜9時ごろでした。




改札口脇のベンチで迎えてくれたのはこの方です。




そして駅前広場には・・・


大型恐竜です!
福井県は日本で唯一の、恐竜の化石が多数出土する県なのです。


敦賀ー金沢間の北陸新幹線の早期開通を悲願に
増設中の立派な駅舎にも
恐竜の壁画がこの通りでした。




明けて快晴の11月3日(金)早朝です。これより福井駅を後にして・・




最初の目的地、一乗谷朝倉氏遺跡へ向かいます。



一乗谷朝倉氏遺跡


一乗谷は福井市中心部からバスで約30分のところにあります。
山に挟まれた細長い谷は、戦国時代には敵の侵入を防ぐ絶好の地形でした。

一乗谷の航空写真             参考画像



バスが谷あいに入ると、両側に緑の林が続き、美しい川が流れ、
時折白鷺の姿が見られました。

室町時代の復原町並(左の建物群)を見ようと、バスを降りましたが
まだ閉まっていたので、近辺に点在する遺跡からまわり始めました。




一乗谷遺跡地図 



朝倉氏平安時代末期に、但馬国養父朝倉に勢力を誇っていた豪族で
南北朝時代には、越前守護の斯波氏に従っていました。
やがて応仁の乱(1467〜77年)を機に、
一乗谷に本拠を移した朝倉孝景氏景親子は
斯波氏に取って替わり、越前を支配するに至りました。

朝倉孝景(1428〜81)参考画像


その後約100年間、一乗谷の朝倉氏5代(孝景から義景まで)は
戦国大名として繁栄しますが
1573年、最後の当主義景の時に、織田信長との戦いに敗れて自刃、
朝倉氏は滅亡し、戦火により一乗谷も灰燼に帰しました。

朝倉義景(1533〜73)参考画像


それから約400年後の昭和42年、一乗谷の本格的な発掘調査が始まり、
戦国時代の遺物が数多く出土しました。
現在、延べ278haが国の特別史跡に指定されています。

《諏訪館跡庭園 特別名勝》

諏訪館は最後の当主、朝倉義景の妻の小少将が暮らした御殿で、
広い敷地の一角には
4mを超える苔むした庭石で構成された、滝の流れる庭園がありました。

一乗谷の中で最も優雅で規模も大きく
平らな石が段状に配置され、縦長や丸い石を巧みに組み合わせるなど、
戦国期の高度な石組みの技術が見られます。




黄葉した、モミジの巨木との調和が印象的でした。







《中の御殿跡》

こちらは義景の生母が暮らした中の御殿跡です。
諏訪館と同様、景色の良い高台に位置し、
一族は優雅に暮らしていたものと思われます。




中の御殿跡を見下ろす山道を、湯殿跡を目指して登ります。
後方に見える建物群は、杉林の森に沿う室町時代の復原町並みです。





《湯殿跡庭園 特別名勝》

湯殿跡は記録が無いため、建てられた経緯に関しては不明ですが
朝倉氏の庭園の中で一番古いものとされているそうです。
一見無造作でしたが、荒々しく林立した勇壮な石組みが魅力となっていました。





《南陽寺跡庭園 特別名勝》

朝倉氏代々の女性が尼僧として住んだ所だそうです。
庭石は穏やかな組み方でまとめられています。




5代朝倉義景1568年に、後の15代将軍足利義昭を一乗谷に迎え、
ここで観桜の宴と歌会を催したといわれています。

参考画像    足利義昭(1537〜97)


咲き誇る糸桜を眺め、二人が詠んだ歌碑がありました。


諸共に 月も忘るな糸桜 年の緒長き 契と思はゝ   (足利義昭)
君が代の 時に相逢ふ糸桜 いとも賢き けふの言の葉(朝倉義景)




しかし結局義景は義昭を奉じて上洛することはせず、
失望した義昭は織田信長のもとへ去り、
5年後、義景は信長に滅ぼされ、一乗谷も運命を共にしたのでした。




《朝倉館跡》

こちらは高台にある湯殿跡から見下ろした朝倉館跡です。

朝倉館跡は5代義景が居住し、公務を執ったところです。
敷地は約1900坪で、三方を濠と土塁で囲まれています。
朝日がさして背後の山の影に入って判りにくくなっていますが
16棟の建物跡や、石組みの庭園も発掘され、
立派な館であったことが想像されました。




後述の一乗谷朝倉氏遺跡資料館
朝倉館の復原模型が展示されていました。
 これは、洛中洛外図に描かれた管領の邸などを参考にして
当時の状況を推定復原したものだそうです。

朝倉館はいちばん大きな常御殿を中心にして、
南側に、主殿や会所、茶室、庭園など、公務や接待用の建物群が、
北側に、台所や湯殿、蔵、などの日常生活のための建物群が配置されています。
この様式は後の江戸時代初期に広く普及して行ったとのことです。

(撮影禁止と知らずに撮ってしまいました)



こちらの朝倉館跡庭園(特別名勝)は完全に土の中に埋もれていたため、
4庭園の中では最後に発掘調査が行われました。
大小様々な石で護岸を組んだ池の底に、平らな石が敷き詰められています。
敷地の一隅に掘られた池という捉え方もでき
建物と庭の関係が、現在の様式に近くなったような印象を受けました。




敷地の中に造られた朝倉義景の墓所がありました。




このような石で組んだ井戸もありました。
中からは当時高価だった舶来のガラスのコップの一部が出土したそうです。




ここはかつて朝倉館土塁の西門があったと推定される
川に面した土塁ですが
今はこの唐門が建っています。

発掘調査される前は、この朝倉館跡は地下深く埋まっており、
遺跡の上には松雲院という義景の菩提を弔うお寺が建っていました。
この唐門は寺の山門として、江戸時代中頃に建てられたものと推定されています。




朝倉館の当時も、この場所に正門があったのではないかと思われるほど
ぴったりの場所に建つ唐門です。




館の外側から撮った唐門です。
小ぶりながら、力強さと格式があります。



簡素な橋が架かった濠と、三方に廻らされた土塁が
室町時代へといざなってくれました。







目の前を流れる一乗谷川を渡って、
対岸の復原町並みの方へ向かいました。



《復原街並み》

連休中でしたが、この通りあまり混んでいません。




展示室に置かれた、かつての一乗谷の町並みの模型です。
南北約200mの道路に沿って、
武家屋敷や町屋が続いていた様子が想像されます。
これまでの発掘調査によって、
一乗谷には京都を倣った、計画的な町割りがあったことが
確認されているそうです。




実際に復原されている建物は、まだほんの一部です。
こちらは武家屋敷の門と土塀で、当時の雰囲気を再現していました。
かつては門の中に多くの建物がありました。




屋敷内で見た見事な紅葉です。




屋敷の門の前には当時の衣装を着たスタッフの方々。




こちらは武家の住まいです。
屋根は板で葺かれ、室内には畳も敷かれて
障子や引戸も多く用いられています。
木材の加工に使われた道具や、建築様式から
京に倣ったものだったことがわかるそうです。

二人がさしているのは朝倉象棋と呼ばれるもの。
建物の内部には、調度品や鎧などが展示されていました。




台所では召使が食事の用意をしています。




こちらは商人や職人の住む町屋の家並みです。




陶磁器を扱う店もありました。




これらの建物は発掘調査に基づき、絵画などの資料を参考にして
忠実に推定復原されました。

記録によると、1467年の応仁の乱勃発以後、
荒廃した京都から多くの公家や高僧、文人、学者たちが一乗谷に避難してきたため
様々な京文化がもたらされ、
一乗谷の生活水準は高く
一時は人口が1万人を超えたこともあったそうです。

《一乗谷朝倉氏遺跡資料館》

こちらは一乗谷の入り口に建つ県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館です。
昭和42年に開始された発掘調査で明らかになった学術成果や、
戦国時代のくらしぶりをうかがわせる膨大な出土品を公開するために、
昭和56年に開館しました。
早朝で閉まっていたため、最後に見学しました。




なかでも発掘調査により出土した、当時の生活用品が印象的でした。

参考画像



朝倉氏滅亡から2年後の1575年に
越前の一向一揆を平定した功績により、
織田信長から越前を与えられた柴田勝家(1522〜83年)は
北ノ庄に居城を築いたので
一乗谷は遺棄され、
長い間に土の中に埋もれて、畑や寺社の敷地になりました。

現在の一乗谷は自然が美しく、道や遊歩道は整備され
遺跡の保存も行き届いています。

越前朝倉氏の名は、昔から大河ドラマで何度も耳にはしていましたが
今回一乗谷に行ってみて、いろいろと認識を新たにすることができました。

***

今回、福井駅近くで、もうひとつ新しく知ったことがあります。
実はこの日の朝、一乗谷に向かうバスが福井駅を出発して程なく、
車窓から、「福井城・北ノ庄城跡」と書かれた道路表示板を見て
あれっと思ったのです。

福井城といえば、福井市の一等地で中心的な存在ですが、
朝倉氏滅亡後、
柴田勝家が築城した北ノ庄というのは、まさにここだったのですね。
北ノ庄城が7層の天守を持つ、壮大な平城だったことも今回知りました。
また、1583年に秀吉に攻められた勝家が、
信長の妹のお市の方と共に最後を遂げたのも、この場所ということになります。

お市の方(1547〜83年)参考画像


そして関ヶ原の合戦後、家康の次男の結城秀康が初代藩主として
北ノ庄城跡に築城したのが、今の福井城だったのでした。
旅行をすると日本史をサボっていたことがよくわかります。

参考画像は、石垣だけが残る現在の福井城跡です。
城跡の中央に建つビルは福井県庁です。

                          参考画像  Wikipediaより


ー続くー