14 Sep. 2016

ルネサンスに生きた四人の女性たち


K.mitiko


フィレンツェ市

「人間性回復」の時代と言われたルネサンスの時代(14世紀~16

世紀)に生きた四人の女性たちの生涯を通して、イタリアルネサンスの

片鱗を伝えることができればと思い、このレポートをまとめました。


システィーナ礼拝堂天井画 

ルネサンスは中世の価値感を大きく変えた出来事で、キリスト教中心の

ヨーロッパ文化の転換点になったのが、イタリア・ルネサンスでした。


ルネサンス期のイタリア勢力図
 

ヴェネツアをはじめとしてジェノバ、フィレンツェなど北イタリア

諸都市は地中海東岸地方との貿易(独占的な香辛料の売買)で経済的に

豊かだったことや、十字軍以降、イスラムや東ローマ帝国(ビザンツ)

の文化の流入により、抑圧された当時のヨーロッパ文化人に刺激を

与えたことにより、ルネサンスの時代がイタリアから始まりました。


サンピエトロ大寺院
 

一方イタリアには古代ローマの遺跡や石像がいたるところに残っており、

人々の生活の中に古代文化があるという環境がありました。


レオナルド・ダ・ヴィンチの岩窟の聖母 

ルネサンスの中心的思想として人文主義(ヒューマニズム)があり、

中世キリスト教の禁欲的な考え方をあらためて、人間のありのままの

姿を表現しようと、絵画、彫刻をはじめ多様な文化が生まれました。


美しき聖母たち 

当時のイタリアは統一国家ではなく、華々しい文化を生んだルネサンス時代は、

また、戦乱に荒れ狂った時代でもありました。イタリア各地に大小の公国

(貴族を君主とする)があり、しかも発展の度合いはまちまちで、互いに

陰謀と殺戮を繰り返していました。ルネサンスの活動は、こうした時代を

背景にまずフィレンツェで花開き各地へと広がっていきました。


ルネサンスの美女たち 

ルネサンス期の芸術作品には裸の人間をモチーフにした作品が多くあり

ますが、それは、人間本来が持つ美しさや欲望などを認め、芸術に

昇華させていったからでした。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ

ラファエルロなどの天才の登場とともに多くの才能が花開きました。

 
ロレンツオ・デ・メディチ

その文化を支えたフィレンツェのメディチ家をはじめ、ローマ法王や多くの

王侯貴族たちの経済的支援もありましたが、特にメディチ家のロレンツオ・デ・

メディチの積極的な支援によってイタリアルネンサンスは最盛期を迎えました。


イザベッラ・デステ
 

「ルネサンスの華イザベッラ・デステ」

 

イザベッラ・デステの生まれたフエラーラのエステ家は、イタリア中部の

ポー渓谷に名をとどろかせる名門でした。宮廷には多くの人文学者や

芸術家が出入りし、彼女は幼いころから身近に、ルネサンスの学芸の粋に

ふれていました。


夫フランチェスコ・ゴンザーガ 

      

家族そろってのだんらんや宮廷でのもてなしでも、金髪のかわいい少女だった

イザベッラは外国語や古典を話し、巧みにリュートを奏でて大人たちをうなら

せていました。やがて彼女は16歳で隣国のマントヴァのフランチェスコ・

ゴンザーガに嫁ぎました。


「勝利のマドンナ」 

夫のフランチェスコは、対フランス同盟の総司令官としてフランス軍を破り、

イタリアの自由を守った英雄にまつりあげられ、この勝利を記念して

お抱えの画家マンテーニャに「勝利のマドンナ」を描かせました。


ダ・ヴィンチの肖像画
 

ルネサンスの王侯貴族たちは、それぞれ自分のサロンに芸術家を集めて

自分の誇りにしていましたが、イザベッラはとくに熱心でした。

彼女は画家レオナルド・ダ・ヴィンチに肖像画を描いてくれように頼み

ましたが、チョークで描いた肖像画しか残されていませんでした。


イザベッラ 

彼女に人生最大の危機が訪れたのは35歳のときでした。戦いに参加して

いた夫がヴェネツィ軍に捕らえられてしまい、彼女は女手一つでマントヴァの

防衛にあたらなけらばなりませんでした。


イザベッラの胸像 

マントヴァをねらっていたのはヴェネツィばかりではなく、フランスも

神聖ローマ帝国も虎視眈々としていました。ときには大嘘をついたり、

媚を売ったりしながら、イザベッラはたくみにその意思をそらして

いかなければなりませんでしたが、マントヴァの国庫も底をつこうと

していました。


イザベッラ
 

夫は妻に見捨てられたという疑いを強くしていましたが、イザベッラは

なんとか身代金を払わずに夫をとりもどすことを考えていました。ついに

彼女は決心をして、最愛の息子を法王ジューリオ二世の人質として送る

ことにしました。


イザベッラ
 

こうして法王の力もあって夫は帰ってきました。イザベッラの強い意思と

勇気、巧みな外交努力に、ローマ法王をはじめフランス王、神聖ローマ

帝国皇帝など全ヨーロッパが賞賛しました。イザベッラ・デステは、65歳で

亡くなるまで心の若さを持ち続け、若いときからの彼女のお洒落は、あせる

ことなく、多くの女性たちを魅了しました。現代においてもさまざまな分野で

活躍した女性に贈られる「イザベッラ・デステ賞」は、彼女をしのぶよすがに

なっています。


ルクレチア・ボルジア 

「悲劇のヒロイン ルクレチア・ボルジア」

 

ルネサンス期の法王、アレクサンデル六世は世俗化した法王の代表的存在で、

本来なら持つべきでない息子のチェーザレや娘のルクレチアを使って政治的

辣腕をふるい、一族の繁栄と法王領の拡大に精力を注ぎました。そのために

ボルジアの名前は好色さ、強欲さ、残忍さ、冷酷さなどを代表するものに

なりました。


教皇アレクサンデル六世 

アレクサンデル六世は、子ども達の結婚を通じて、有力な他家との同盟を

はかり、まず娘のルクレチアをミラノのスフォルツァ家に嫁がせましたが、

スフォルツァ家が不要になると、結婚を無効にする策謀をすすめ、カトリック

では認められない離婚が実現しました。

 


チェーザレ・ボルジア
 

ルクレチアの二度目の結婚相手はナポリ王の息子でしたが、この関係も長続き

せず、兄のチェーザレ・ボルジアはフランスとの関係を強化し、ナポリ王国との

関係を破棄することを望みました。邪魔になった若い夫のアルフォンソは

暗殺されます。


ルクレチア
 

ルクレチアの三度目の結婚相手は、フエラーラ公の長男アルフォンソ・デステで

イザベッラ・デステの弟になります。ルネサンスの花開いた宮廷には、各地

から文学者や芸術家が集い、ルクレチアは夫との関係もよく、サロンの女主人と

して落ち着いた生活がおくれるようになりました。ルクレチア・ボルジアは、

領地フェラーラで夫との間の七番目の子供を出産した後、産褥熱にかかって死去し

ました。


アレクサンデル六世と息子のチエザーレ、ルクレチア 

兄のチエザーレ・ボルジアは、イタリア統一の野望をいだき、父法王の援助で

権謀術策のかぎりをつくし、妹ルクレチアを利用することをためらいませんでした。

アレクサンデル六世と息子のチエザーレの行為は、ルネサンス時代の

闇を象徴しており、その渦中にあったルクレチアはまさに悲劇の人でした。


ルカテリーナ・スフォルツア 

「ネサンスの女丈夫  カテリーナ・スフォルツア」

 

カテリーナ・スフォルツアはミラノ大公の娘として生まれ、十四歳の時

イーモラとフオルリの城主で、教会軍総司令官として絶大な権力を持って

いた法王の甥と結婚しました。カテリーナは夫との間に七人子供をつくり

ましたが、夫は城内で謀反人に襲われ暗殺されました。軟禁されていた

カテリーナは身ひとつでフオルリの城に逃げ込みました。


ルカテリーナ・スフォルツアの籠もったフオルリ城
 

謀反人たちは、カテリーナの子供二人を、城の前にひきたてて、カテリーナが

城から出てこなければ殺すと脅迫しました。すると、カテリーナは城の屋上に

立ってスカートを捲り上げると「こどもなどここからいくらでもでてくると」

さけび、これには謀反人たちもあっけにとられたと言うエピソードはイタリア

中の評判になりました。


ルカテリーナ・スフォルツルア 

カテリーナの二度目の夫も暗殺され、最初の夫の復讐も残忍でしたが、

二度目の時のカテリーナの復讐は凄まじく、その残酷な処刑にその地域の

人々は震え上がりました。カテリーナの三番目の夫ジョバンニ・デ・

メディチはフィレンツェの名門メディチ家の出身で、非常な美貌で

「美男(イル・ベッロ)」と呼ばれていましたが、若くして亡くなり

ました。


ルカテリーナ・スフォルツルア 

カテリーナの統治するイーモラとフォルリをチェザーレ・ボルジアが狙い、

この地域をめざして行動をはじめました。それを知ったカテリーナは戦争

準備に狂奔しましたが、カテリーナの圧制に飽きていたため、まずイーモラ

市民がチェザーレを解放者として迎え入れました。激怒したカテリーナは

イーモラから連れて来た市民の代表を絞首刑に処したために、その残虐さに

かえって人々の心を離反させてしまいました。


サンタンジェロ城 

イーモラの落城にカテリーナは絶望的な勇気をふるい起こして、甲冑を身に

つけ、2000の兵とともに砦に立て篭もり、カテリーナ自身も剣をふるって

斬りあいましたが、チェザーレの圧倒的な攻撃についに降伏せざるをえません

でした。チェザーレの捕虜となり、カテリーナはローマのカステル・サンタン

ジェロに投獄され、一年半幽閉されました。


ルカテリーナ・スフォルツア
 

釈放された後、チェザーレの暗殺を恐れて男装してローマからフィレンツェ

に落ちのびました。美しく豪胆で勇気あるカテリーナも国家、家族、すべてを

失った後、ようやく神に近づきました。九年前にチェザーレ・ボルジアにたった

一人で立ち向かいイタリア中を熱狂させたカテリーナは四十六歳で亡くなり

ましたが、人々はカテリーナ・スフォルツアを「イタリア第一の女」と呼びました。

 


カテリーナの息子「黒隊のジョバンニ」 

カテリーナの三番目の夫ジョバンニ・デ・メディチとの間に生まれた息子は

母の血をひき、「黒隊のジョバンニ」と言われ、ルネサンス時代の最後の武人

となりました。その子孫は初代トスカナ大公、フランスではアンリ四世から

ルイ十四世、ルイ十五世、ルイ十六世、と続き、イギリスではチャールス二世

まで、スペインでは現代の前国王までつながっています。


ヴィットリア・コロンナ                             

「ミケランジェロとヴィットリア・コロンナ」

 

イタリア半島をめぐっては長年フランス王家とハプスブルグ家が争っていて、

教皇は常に両者の顔色を伺いながら選ばれていました。教皇領をハプスブルグ家の

カール五世に圧迫されることを恐れた教皇がフランスと手を結んだことを

知ったカール五世は教皇を懲罰するために、ドイツ兵、スペイン兵からなる

皇帝軍をローマを攻撃させました。

 


ヴィットリア・コロンナ 

1527年皇帝軍はローマを総攻撃、皇帝軍はローマで略奪、暴行など乱暴狼藉の

かぎりをつくしました。このキリスト教世界を震撼させた事件を「ローマ略奪」

(サッコ・デ・ローマ)といいイタリアのルネサンスの「終わりの始まり」と

言われています。


ヴィットリア・コロンナ 

ルネサンスの巨人ミケランジェロは、「ローマ略奪」の際、フィレンツェ防衛

軍の司令官まで勤めましたが、総司令官の裏切りでフィレンツェは陥落。

ミケランジェロは時の教皇によって助けられましたが、この時期のミケランジェロは

自殺しようとまで思いつめていました。


ミケランジェロの素描
 

六十歳を越したミケランジェロの前に一人の美しい尼僧が現れました。それが

ビットリア・コロンナで、ヴィットリアはローマの名家コロンナ家に生まれ、

わずか四歳でペスカラ侯と婚約させられ、不幸な結婚と夫の早死にで修道院に

入りました。


ミケランジェロの素描 

彼女は夫との愛の思い出にひたり、その思い出を詩につくり、やがてヴィットリアの

詩はイタリア中にひろまって、彼女の名声を高めました。一方では宗教に深く帰依し、

断食をしたり、苦行服を着て苦行したりするようになりました。やがて彼女は、

カトリックから離れて、プロテスタントに接近していきましたがヴィットリアの

悩みは深まるばかりでした。

 


ヴィットリア・コロンナ  ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル、19世紀 

そのころにミケランジェロはヴィットリアと出会い、当時、詩人として活躍

していた彼女は、その美しい姿と率直な性格、そして優しい声にミケランジェロは

惹かれていきました。


ミケランジェロの素描 

ミケランジェロはヴィットリアの住む修道院を毎週日曜日に訪れ、信仰のことや

いろいろなことを話題にしました。ヴィットリア四十六歳、ミケランジェロは

六十三歳でした。二人の間に愛が芽生えましたが、この愛はあくまでも精神的な

ものでした。


ミケランジェロの素描 

ミケランジェロは孤独を好む陰鬱な性格で人付きあいを避け、内に引きこもるような

性格でしたが、ヴィットリアと出会ったことで生活も少しづつ変化し、仕事のあいまに

ヴィットリアにソネット(短詩)を贈るほどになりました。そんなミケランジェロに

彼女も真摯に向き合い、愛にも似た友情は深まっていきました。

 


ミケランジェロの胸像
 

 

 

ミケランジェロはそれまでの寂寞とした生活の中で、孤独という寂しさを

嫌というほど味わってきただけに、ヴィットリアとの交流に歓びを見出したのか、

詩の交換だけでなく、彼女のためにデッサンをしたり、彼女に捧げるための

「ピエタ」の素描をしたりしました。二人は誰にも邪魔されることなく友情

を育みました。


ミケランジェロによるヴィットリア・コロンナのためのピエタ 

ヴィットリアとミケランジェロの交流は、ヴィットリアの死まで8年間続き

ましたが、それを見守ったミケランジェロは「私が彼女の死を見たことと、

彼女の手に接吻をしたが、額や顔に接吻しなかったことを思うほど私の心を

苦しめるものはない」と語りました。 

 


ミケランジェロの傑作「ピエタ」
 

彼女が天才に与えた影響は大変なもので、後にシスティーナ礼拝堂のフレスコ画

「最後の審判」の中に描かれている聖母マリアの顔をヴィットリアの顔と

しました。ヴィットリアは、当時の貴族の夫人としては地味なほうでしたが、

その名が知られているのはミケランジェロとの交流があったればこそでした。

ヴィットリアは、後年、ルネサンス期の最良の婦人のひとりとして賞賛されて

います。


ボッティチェルリの「春」 

イタリアルネサンスは「ローマ略奪」で終わりを告げましたが、その輝きは

イタリアからフランス、ドイツ、イギリスへと広がっていきました

激動のルネサンスを生きた四人の女性たちは、善悪はともかくも持てる力と

勇気を発揮して人生を生きぬきました。

 

追記

「ローマ略奪」の衝撃は、イタリア国民に後世まで大きな影響を与えました。、

 

 

参考資料

 

「ルネサンスの女たち」    塩野七生

「ルネサンスの美女たち」   千趣会