20 Oct. 2016

2016年9月 石山坂本線の旅(3)大津宮跡 三井寺 石山寺



《大津宮遺跡》

「三井寺駅」の3つ手前の近江神宮前駅の近くに
天智天皇が造営した大津宮の跡があるというので行ってみました。
遺跡は住宅地の中に、第1から第9地点まで
点在しているとのことでしたが、
今回は主要な第1と第2地点を見学しました。

駅を出て錦織2丁目の信号からすぐのところに児童公園のような空き地があり
史跡近江大津宮錦織遺跡第地点」と書かれていました。案内板には

1974年(昭49)の発掘調査の結果
内裏南門回廊の柱穴が見つかり、初めて大津宮の位置が確定された

とありました。





発掘当時の遺構の写真も掲示されています。
この地点は私有地だったので発掘後は一部を残して埋め戻され、家が建てられたとのこと。





敷地の隅には明治28年に日吉大社の宮司さんによって書かれた
志賀宮址碑」がありましたが、石がすり減って文字が読めませんでした。
サイトによりますと内容は

大津にはかつて天智天皇の近江大津京があり、天皇の死と共に滅び
年月と共にその旧跡も不明となったが、古老の話などから、
錦織御所之内」をはじめ、「皇子山」「東大路」「西大路」などの地名もあるここに碑を建て
この地を大津宮の跡地として無窮に伝える

という趣旨が述べられているそうです。
考えてみると掘らずに古老の話だけで推定した場所が、
発掘の結果ぴったり当たっていたわけですから
昔の人の言い伝えは正しいものだなと感心しました。
でも見当はついても運良く柱穴を掘り当てるのはやはり大変なことでしょう。





また錦織(にしこうりという地名を解説する道標も立っていました。
この辺り一帯には奈良時代以前から錦部氏という機織関係に携わる渡来人が
居住しており、古くは錦部郷とよばれていたそうです。





次にやって来た100mほど離れた第2地点です。
ここからは天智天皇が政務を執った内裏正殿の遺構が発掘されました。
今は柱穴のあった場所を示す低い丸太が多数並んでいます。





なかなかイメージできませんが、ここに内裏正殿が建っていたのですね。





参考に遺跡一帯の地図をお載せします。
黒い点線が推定される内裏の輪郭、黄色い部分が発掘地点で、
赤い部分が出土した遺構の範囲です。

今回はの地点に行きました。
内裏の規模は南北350m、東西150mぐらいとのことです。





この錦織地区は、昔は琵琶湖の湖岸が今よりもさらに丘陵に迫り、
平地が狭かったので、大津宮には碁盤の目のような条里は無く、
「京」というよりもやはり「宮」の規模だったのではないかといわれています。
(オレンジの線が内裏の輪郭です。)

大津宮復元イメージ(参考画像)





天智天皇は白村江の戦い(663年)で唐と新羅の連合軍に大敗した後、
報復と侵攻に備えて九州の大野城や瀬戸内海に防衛拠点を築く一方で
この大津宮を建設し、667年に飛鳥から遷都し、翌年即位しました。

ところが671年に天智天皇が崩御し、翌年には壬申の乱が起き
世継ぎの大友皇子(648〜672は、
天皇の弟の大海人皇子(〜686に敗北し、自害しました。
大津宮は遷都後5年でその歴史を閉じ、再び飛鳥に都が遷されました。

第1地点の敷地には、宮廷歌人として活躍した柿本人麿呂(660〜724
後年大津宮跡を訪れた際にその荒廃ぶりを悲しんで詠んだ
『万葉集 巻1-29』の歌碑がありました。





人麻呂の大津を偲ぶ歌は、旅行中様々に紹介されていました。

さざなみの 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ  巻1-30
近江の志賀の辛崎は昔のままにあるが、もう大宮人の舟には出逢えなくなってしまった。

さざなみの 志賀の大わだ よどむとも 昔の人に またも逢わめやも  巻1-31
近江の志賀の大わだがいくらよどんでも、昔の大宮人にはもうめぐり逢えない。

近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ   巻3ー266
琵琶湖の夕波に騒ぐ千鳥たちよ、おまえたちが鳴くと 心はうちひしがれ昔のことが偲ばれる。


何気ない住宅地の中からも歴史ロマンが発掘される土地柄なんだなあと思いながら、
また電車に乗りました。


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《 三井寺(園城寺)》


近江神宮前駅から3つ目の三井寺駅で降りました。





三井寺として知られる園城寺は、壬申の乱で敗れた大友皇子の息子
大友与多王(よたのおおきみ)が父の霊を弔うために創建した氏寺でした

858年、留学を終えて唐から帰国した比叡山延暦寺の円珍智証大師 814〜891)は、
持ち帰った多くの経典や法具を、三井寺に唐院を建てて収蔵し、密教の道場も設立して
空海の真言密教に比べて遅れていた天台密教の確立に貢献しました。
こうして三井寺は天台別院として、東大寺、興福寺、延暦寺とともに
本朝四箇大寺(しかたいじ)のひとつに数えられました。

三井寺がかつて東大寺や興福寺、そして延暦寺に
肩を並べる重要な寺院だったという事を今まで知らず、大変勉強になりました

三井寺は大きく発展し、円珍は比叡山の5世天台座主となりますが
その死後円珍派と、3世座主の円仁派との間に派閥争いが起き
993年に円珍派は比叡山を下りて三井寺を拠点としました。
以来天台宗は延暦寺の山門と三井寺の寺門に2分され
果てしなく対立関係が続きました。

1595年、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、事実上の廃寺を命じられて
寺宝や金堂が他所へ移されたりしますが、その後許されて復興し
現在の規模に落ち着いたそうです。

三井寺の広大な境内には、こうした激動の歴史をはらむ数々の建造物に加えて
西国三十三所観音霊場の札所や、湖国十一面観音霊場の札所もあり、
赤で囲んだ所を一通り見て回るだけで精一杯でした。


三井寺境内案内図






仁王門(室町時代 1452年建造 重文)


三井寺の入り口に立つ仁王門です。
豊臣秀吉が滋賀の常楽寺から伏見城に移築した楼門を
1601年に徳川家康が三井寺に寄進したものといわれています。






釈迦堂(室町時代 重文)


こちらも室町初期の建築で、中世寺院の食堂の様式を伝えているそうです。






金堂(桃山時代1599年 国宝)


階段の上に金堂が建っていました。
こちらには天智天皇の念持仏といわれる本尊の弥勒菩薩
永久秘仏としてとして安置されています。
お坊さんも厨子の鍵の開け方を知らないとか。





桧皮葺の屋根の曲線が大変美しい現在の金堂は、
豊臣秀吉の正室の北政所によって1599年に再建されたものです。
(旧金堂は秀吉が廃寺を命じた際、1596年に延暦寺に移築されています。)






鐘楼(三井の晩鐘) 桃山時代 1602年 重文


金堂から見た鐘楼です。日本3大名鐘のひとつに数えられ
「音の三井寺」「姿の平等院」「銘の神護寺」といわれるだけあって
時々境内に響いていましたが、確かに素晴らしい音色でした!





毎日、暮れ六つの鐘として周辺に時を告げる三井の晩鐘
多くの絵師による「近江八景」の中に描かれています。

歌川広重  近江八景「三井晩鐘」  (参考画像)










閼伽井(あかい) (桃山時代 1600年 重文)

閼伽井は仏前に供える水を汲むところだそうです。
この泉の水が天智天皇、天武天皇、持統天皇の産湯に使われたことが
三井寺の名前の由来になっているとのことです。





格子の間から内部を撮りました。
石の間に水が湧いていて、ゴボッ、ゴボッという音が聞こえていました。






光浄院客殿 (桃山時代 1601年 国宝)

光浄院は三井寺の中でも最も格式の高い子院とのことです。
近寄れたのはここまでです。こうして門の外から格調高い佇まいを拝見しました。





光浄院客殿は桃山時代の書院建築として大変貴重(国宝)なのだそうです。(参考画像)





内部には狩野山楽の障壁画があるとのことです。(参考画像)






弁慶鐘(奈良時代 156cm 重文)

霊鐘堂に安置されているこの古い鐘は、鋳上がりが悪く、傷や欠損が多いので
弁慶の引き摺り鐘」の逸話となって残され
その昔、三井寺の衆徒が延暦寺の弁慶らと争った際、
弁慶がこの鐘を持ち去って比叡山に引き摺り上げたり、
谷底へ投げ落としたりしてこれらの傷が付けられたとされています。

その後この鐘は三井寺に凶事が迫った時には
前兆として鐘の表面に汗をかいて音を出さなかったので
三井寺を鎮護する霊鐘として大切に伝えられてきたそうです。





「近江名所図会」より 崖から鐘を投げ落とす弁慶たち。






一切経蔵  八角輪蔵 (室町時代 重文)
 

一切経蔵は一切経を安置するためのお堂です。
三井寺には珍しい禅宗様式の建物ですが、
1602年に毛利輝元によって山口の国清寺から移築されたものだそうです。





内部には回転式の巨大な八角輪蔵が備えられ、高麗版一切経が納められています。

 





唐院(三重塔 室町時代 重文)(大師堂・灌頂堂 桃山時代


こちらは唐院への参道と階段で、自然石の石積みと立派な石灯籠が特徴です。
唐院智証大師円珍が858年に唐から持ち帰った経典や 法具が納められ
密教を伝授する道場の役割も公認されて、三井寺は天台別院としてその後大きく発展しました。





この 四脚門を通ると・・・





右側に立つ3重塔です。
室町時代の建立で、秀吉が奈良の比蘇寺から伏見城へ移築したものですが、
1600年に徳川家により三井寺に寄進されました。





左となりの灌頂堂は桃山時代の建築で
大師堂の拝殿として、また灌頂(密教の伝承)を行う道場の役割をしています。
そのとなりの小さな建物は長日護摩堂です。
肝心の大師堂は、灌頂堂の右端に壁と建物がちょっとだけ見えていますが
入れるのはここまででした。




          
上から見た唐門と大師堂です。(参考画像)
唐院一帯は開祖・智証大師円珍の廟所として最も神聖な場所です。





10月の円珍の誕生日には下記画像のように開扉されると聞きました。(参考画像)





大師堂には、下記の3体の像が祀られています。

(左)智証大師坐像(御骨大師)
平安時代9世紀 国宝
大師の遺骨を胎内に納めた霊像 (参考画像)

(右)智証大師坐像(中尊大師)
平安時代10世紀 国宝
唐院大師堂の中央に祀られています。 (参考画像)


  



(左)黄不動尊立像
鎌倉時代 重文
下記右の黄不動を描いた仏画を模して
彫られた像ですが、素晴らしい不動明王です。(参考画像)


(右)絹本著色不動明王像
平安時代 国宝 
円珍がかつて比叡山で修行中に感得した黄不動を
後に画工に描かせたものといわれています。(参考画像)
(こちらは大師堂には祀られていません。)


     



大師堂の中央に祀られているのが智証大師坐像(中尊大師)です。(参考画像)

数年前に美術館で「三井寺展」が開催され、これらの像が一堂に
公開されたそうです。お寺の秘仏はそういう機会をとらえて拝観するのがよさそうですね。







勧学院(桃山時代 1600年 国宝

勧学院は学問所として、鎌倉時代の1239年に創立され、
秀吉による廃寺の混乱で焼失し、1600年に秀頼の命により
毛利輝元が造営奉行として再建されたものです。




この日はたまたま建物内部が公開されていました。





縁側から見た庭の様子です。





客殿内部の狩野光信による襖絵です。
本物は境内にある文化財収蔵庫のガラスケースに陳列されていました。










微妙寺 

微妙寺は三井寺の五別所寺院のひとつで、
湖国十一面観音霊場の第1番札所でもあります。





本尊の十一面観音立像(重文)は
お向かいに新しく建てられた文化財収蔵庫に収めてありました。
ガラスケース拝観でしたが大変立派な観音様でした。

平安時代前期 9世紀 高さ81.8cm 重文(参考画像)








観音堂 (江戸時代 1689年再建


こちらは西国三十三所霊場 14番札所です。
そういえば5月に行った熊野の青岸渡寺は西国三十三所霊場1番札所でした。
こちらも熱心なお参りの人が絶えません。





本尊の如意輪観音坐像です

平安時代 重文 木造 像高91.6cm 参考画像







護法善神堂(鬼子母神)江戸時代 1727年





本尊は下記の2像が祀られていますが、文化財収蔵庫の方に展示されていました。

護法善神立像(ごほうぜんしんりゅうぞう)
平安時代 像高159.1cm 重文
子供時代の円珍の守護神として祀られているとのことです。
彩色がまだ残っていて美しいです。





訶梨帝母倚像(かりていもいぞう)
鎌倉時代 木造 像高43.9cm  重文

鬼子母神とも呼ばれ、釈迦によって改心し子供の守護神となった女神です。




内容盛りだくさんの三井寺をあとにして電車に乗り、最後の目的地へと急ぎました。





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いよいよ終点の「石山寺駅」にやってきました。









《石山寺》


聖武天皇は大仏建立に必要な金の調達を祈願し
良弁僧正を開基として747年に石山寺を創建しました。
当初は東大寺の末寺として栄えましたが、平安時代に密教化が進み
鎌倉時代初期に現代の寺観が整って文化財も多数残されているとのことです。
今回は時間の関係で、青く囲んだ所だけを回りました。






東大門 (1190年 重文)

石山寺の正門、東大門(ひがしだいもん)は瀬田川を見渡す場所に立ち
寺伝では1190年に源頼朝が寄進したとされ、屋根裏のない天竺様になっています。
1602年に淀殿の寄進によって「慶長の大修理」が行われたとのことです。





左右の仁王像は寺伝では運慶・湛慶作と伝えられているそうです。





参道の両側には桜が植えられて、
赤と紫ののぼり旗が並び、華やいだ感じでした。





観音堂

石山寺は東寺真言宗のお寺で
西国三十三所霊場の第13番札所です。
このように小さなお堂の中にも33の観音像が祀られています。






本堂 (1096年再建 国宝)


正倉院文書によると、本堂は761年頃に拡張されたとあり
1078年の焼失後、正堂は1096年に再建されて、
現在滋賀県最古の木造建築となっています。
また、1602年には淀君の寄進により本堂につながる礼堂合の間が建て替えられました。




石山寺礼堂は斜面に建っているので、
礼堂は格子に組んだ高い柱で床をささえる懸造りが有名ですが
高い杉木立が視界を遮り、正面からは見えませんでした。
建物の下から撮られた懸造りの参考画像( Wikipedia)です。





本堂入口です。突き当たりの紺色の幕のあたりが
紫式部ゆかりの源氏の間の窓となっています





石山寺縁起絵巻によれば、
紫式部が主の女院(藤原彰子)から物語の制作を命じられ、
7日間石山寺に篭って月を眺めるうちに構想が浮かんだということです。

石山寺縁起絵巻(模作) 巻第4  東京国立博物館像 参考画像





「源氏の間」の内部には、筆を片手に構想を練る紫式部の人形が置かれていました。
(源氏物語は石山寺で書かれたものではないそうです。)
ISHIYAMA12




本堂の祭壇では本尊如意輪観音1096年頃 重文)が
ちょうど33年に度(12月4日まで)という開扉の最中で、
内陣の奥まで入ってお参りすることが出来ました。

祭壇の裏側にあたる内陣に回ると、
背の高い観音像を安置する巨大な厨子が開かれており
ご本尊は自然石の上に置かれた台座の上に
片足を上げて座した形となっていました。(参考画像)

また本尊の裏側に回って
塑像の断片や、本尊に収められていた胎内仏像 4体も見学しました。





祭壇の小窓を通して
本堂からも観音の姿が見えるようになっていました。(参考画像)






蓮如堂 1602年 重文

本堂の手前に建ち、現在は蓮如上人が祀られています。
こちらも崖の上にせり出した懸造りになっています。





珪灰石(天然記念物)

石山寺は石灰石が熱変化した珪灰石(けいかいせき)の岩盤の上に建てられ
石山寺の名の由来になっています。

美しい木立や堂塔と調和した景観は
まるで最高の庭石を運んで来たのかと思うほど珍しく、
天然記念物にも指定されています。










経蔵(桃山時代)

滋賀県では珍しい校倉造りの経蔵だそうで
貴重な経典を保管する役割を果たしました。






鐘楼(鎌倉後期 重文)

源頼朝の寄進と伝えられていますが
様式や木材から、鎌倉時代後期のものと考えられているそうです。

木組みと白い漆喰とのバランスが大変美しい鐘楼とされています。






多宝塔(1194年建立 国宝
 
源頼朝の寄進によるものといわれ、現存日本最古の多宝塔です。
高野山金剛三昧院(多宝塔 1223年 国宝)、
慈眼院(多宝塔 1271年 国宝)と共に日本3名塔の1つだそうです。





多宝塔は下層が方形で、上層の胴の部分は円形になっています。





本尊の金剛界大日如来坐像(鎌倉時代1194年 快慶作 重文)です。 参考画像





一応来た証拠です。多宝塔はいいですね。





そろそろお山を下りて帰りましょう。

石山寺の東大門の前で名物「石餅」を商う和菓子の老舗「叶匠壽庵」です。
「たねや」同様、滋賀県のお店なんですね。






石山坂本線の旅も何とか無事に終える事が出来ました。
延暦寺も三井寺も石山寺も何しろ歴史が古く、
今回は何とか外形を知る旅になったかなという感じです。
沿線にはまだまだ面白いところもありそうですから、またゆっくり来たいものです。




再び京都へ戻って・・・





何とか日暮れ前に新幹線に乗れました。






最後までお付き合いいただきありがとうございました。

ー終ー