30 July 2016


2016年5月連休の旅(9)補陀洛山寺

T.H.



新宮を後にして、那智の海岸近くの補陀洛山寺(ふだらくさんじ)にやって来ました。
ここは仁徳天皇の4世紀に、天竺(インド)から漂着した裸形上人により
開山されたという言い伝えが残っています。
また那智大社にゆかりが深く、人々は大社に向かう前に
近くの浜で身を清め、ここにお参りをする習慣があったそうです。
1808年の台風により倒壊したままでしたが、
1990年に現在の室町様式の本堂が再建されました。




かつて補陀洛山寺は
隣地の旧浜の宮王子(現在は熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)
守護寺としても知られていました。

王子というのは参詣者が旅の途上で宗教儀礼を行う場所で
12〜13世紀頃盛んとなった熊野御幸に際し、
先達を務めた各地の修験者により急速に整備され、その数99と云われました。

王子は熊野御幸のルートに沿って分布しています。(下記の地図の赤い丸印)
その標準ルートは
京都を発ち、大阪の淀川河畔から海沿いの「紀伊路(きいじ)を南下し、
田辺から内陸に入る「中辺路(なかへち)経由で本宮大社へ到着、
次いで熊野川を舟で下って新宮の速玉大社に到着、
海沿いへ出て浜の宮王子から内陸へ入り
大門坂多富気(たふけ)王子を最後に那智大社に到着するというものでした。
帰路はこの逆でした。

現在補陀洛山寺がある旧浜の宮王子は
このように那智大社や伊勢への分岐点でもあり、交通の要衝でした。



熊野参詣道と王子(参考画像)





本堂の本尊は 十一面千手観音立像(重要文化財)です。
木造一木造 平安時代後期 像高172cm
















平安時代以降、末法思想の到来と共に、人々は熊野に極楽浄土を求めました。
神仏習合による観音信仰が高まりを見せた那智の地では、
観音浄土が在るという遙か南方海上の補陀落世界をめざして
単身で浜から舟で旅立ち、信仰のうちに往生をとげようという
補陀落渡海(とかい)」と呼ばれる捨身の宗教儀礼が生まれました。

平安時代の868年から江戸時代の1722年までに
この地で25人が渡海したといわれています。
これは各地で行われた補陀落渡海の半数に及び、
補陀洛山寺はこうした渡海上人の聖地として信仰されました。

下図は鎌倉時代ごろから布教の目的で描かれた那智参詣曼荼羅と呼ばれる宗教画の一部です。
大きな鳥居の前の海岸に浮かぶ「南無阿弥陀仏」と書かれた
白い帆の小舟が渡海船で、人々に見送られ旅立とうとしています。

那智参詣曼荼羅 補陀洛山寺蔵




参詣曼荼羅熊野比丘尼(びくにと呼ばれた旅回りの尼僧らにより
各地で人々に分かりやすく絵解き(説法のこと)が行われました。
下図はその絵解きの場面です。

熊野比丘尼絵解図 フーリア美術館蔵 参考画像




お寺の境内の一角には
曼荼羅の考証などに基づいて原寸大に復元された渡海船が展示されていました。

舟の内部は大人ひとりがやっと座れるほどの大きさで
渡海僧は30日分だけの水と食料と灯油を持って乗り込み
入口には外から釘を打たれ、曳き船で曳かれて沖で縄を切られました。




渡海僧は渡海上人として崇められ、こうして名が残されています。
江戸時代後半になると、亡くなった住職を乗せて渡海船を送り出す方法に
変わっていったということです。








補陀洛山寺は「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されています。
境内の石碑には「補陀洛渡海発祥の地」と彫られていました。




ー続くー