27 July 2012

Yokoの東京散歩 特別名勝 六義園」      2012.6.25


友人との東京散歩。今回は、文京区本駒込にある六義園。

東京メトロの南北線・駒込駅で待ち合わせて出発です。


六義園は、1695年(元禄8年)、当時川越藩主であった柳沢吉保が、加賀藩下屋敷であった

駒込の地約46,000坪を幕府より拝領した後、7年の歳月をかけて築き1702年に完成させた

江戸を代表する名庭園。当時の大名庭園に多くみられるように、六義園もまた、庭園中心部の池泉を

中心に築山を配した回遊式庭園となっている。


この造園の間、1698年には徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺の根本中堂の造営で総奉行を

務めたり、「忠臣蔵」で名高い1701年の殿中松の廊下の刃傷沙汰の事後処理に当たるなど、

多忙な日々であったので、駒込の現場で造園普請の陣頭指揮をとることはできず、江戸城内につめる吉保は、

連絡係に図面を見せつつ指図をだしながら作庭を進めていったという。

この創作へのひたむきさが、ゆっくりと自分好みの庭園を完成させたのであろう。


六義園の最大の特徴は、園内の随所に「八十八境」が配されている点にある。

八十八境とは「和歌にちなんだ八十八ヵ所の景観」といった意味で、その中には現在も和歌山県に

存在する景勝地がいくつか取り上げられている。

六義園という名も、平安時代の我が国初の勅撰和歌集「古今和歌集」の序文にある「和歌に六義あり」に

由来するものという。

ここまで徹底した和歌の世界へのこだわりとは・・・


吉保は、自信の日記「六義園記」に「六義園で遊ぶものは和歌の道に遊ぶものと同じ」という

主旨の記述を残しており、元禄期を代表する国文学者・北村季吟から和歌を学んでいた。

吉保が六義園を狩野派の絵師に描かせたものを、霊元上皇へ献上した返礼として、1706年

霊元上皇から上皇自ら六義園内の景勝地十二境八景を選んだうえ、延臣の公家たちに和歌を詠ませた

巻物が下賜された。

自ら普請した庭園が契機となって、一幕臣の屋敷の庭園に上皇を通じて和歌が贈られるという

きわめて稀な栄誉に浴することになったのだから、吉保の喜びと満足感はいかばかりであったことか。


さて、園内に入っていくと。



花を愛でようという今回の散歩。紫陽花の季節です。

園内にはこのような八十八景を説明するものが、そこかしこに立てられています。


写真中央右が「蓬莱島」



水分石あたり



変わった枝振りのつつじ。



藤代峠


皇位継承の争いの中で無念の死を遂げた有馬皇子の悲話で知られる藤白の御坂(現在の和歌山県海南市)を

モチーフに造営されています。



藤代峠からの眺め。 



生憎の曇り空の天気。写真はいまひとつでも、暑くはなく、よい散歩日和。

立派な枝垂れ桜もあり、四季折々に楽しめる素晴らしい庭園でした。


六義園は吉保が1714年、深く愛したこの庭で生涯を閉じた後、徐々に廃れ始め幕末の混乱期には

完全に荒廃してしまったが、1878年に三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎の別邸となったことで再び

時代の権勢家の庭園として蘇り、1938年に岩崎家から東京市へと寄付され、誰もが親しめる市民の

公園となったのである。六義園の説明は「東京人」を参考にいたしました。


この後、歩いて(30分位)小石川植物園に向うも月曜日で休園。

そこから播磨坂を抜けて茗荷谷へ。丸ノ内線で銀座へ出て、ダロワイヨのケーキバイキングとおしゃべりで

この日のお散歩は終わりました。


因みに播磨坂は、この地にあった松平播磨守の上屋敷にちなみ、播磨坂と名付けられ、昭和35年に坂の舗装が行われた際に、

当時の花を植える運動の一つとして桜の木約150本が植えられ桜の名所としても知られています。
播磨坂は、第二次大戦後の区画整理でできた「環状3号線」の一部として整備されましたが、この環状3号線はこの播磨坂の部分

だけで終わっています。何故?


暑さ厳しき折、東京散歩はお休みです。 秋になったらまた、ペースをあげてがんばるべ〜〜


                                                              お し ま い