10 Mar. 2014

私の敬愛する女性 

      クララ・シューマン

BGMは”Scherzo no. 2, op. 14”

                        k.mitiko
 

クララ・シューマンはキュリー夫人とともに私が最も敬愛する女性です。

 

クララは現代ヨーロッパの共通通貨ユーロに統合される前のドイツの

100マルク紙幣に、その肖像画が使われるほど、ドイツ国民に愛され

てきた女性です。

 

 

 

 

クララは1819年ドイツのライプチッヒにピアノ教師の父親とピアニストの

母親の元に生まれ、クララが5歳のとき、両親が離婚しために、厳格な

父親の手で育てられました。

 

 

4歳のころからピアノを父の手ほどきを受けたクララは9歳のころには

公開の演奏会を開くまでになりました。

 

 

 

 

その才能に気づいた父親は、学校へはほとんどかよわせずに、ピアノや

音楽一般の厳しいレッスンは父親が教え、英語やフランス語などは

家庭教師をつけて学ばせ、日記はすべて検閲するほどクララを徹底して

管理しました。

 

その結果クララは、驚くほど我慢強く意思の強い女性に成長しました。

 

 

 

 

12歳になると初の演奏旅行に出るようになり、16歳になるころには

天才児としてヨーロッパ中に歓迎され、ゲーテの前で演奏して高い

評価を得るほどになりました。

 

クララが11歳のころロベルト・シューマンが父のもとに弟子入りして、

同居するようになり、二人の間には友情がめばえ、それがやがて

愛情に変わっていきました。

 

 

 

 
二人はクララが17歳になったころ、自分たちだけで将来の
結婚を誓い合うようになりました。
 

 

 

 

 

18歳になるとオーストリア皇帝の前で午前演奏をして、

オーストリア帝国の最も栄誉ある賞を授与されました。

この年、二人は父に結婚を許して欲しいと申し出ましたが、

父はそれに対して猛反対をしました。

 

 

当時クララはピアニストとして人気の絶頂期にあり、クララを

失うことは興行主として、父にとっては経済的に打撃になる

ことでした。

 

 

 

 

 

「トロイメライ」の作曲家ロベルトシューマンは、ロマン派の音楽家として、

また音楽評論家としてショパンを評価し、メンデルスゾーンを擁護し、

若き日のブラームスを発掘をしました。

 

 

ベルリオーズをドイツに紹介、シューベルトの器楽曲の発見やバッハ全集の

発行のよびかけなど、ドイツ音楽の地位向上と、忘れさられていた過去の

ドイツ音楽の名作の再評価に決定的な役割を果たした人物として

知られています。

 

 

 

 

 

二人の結婚を認めない父との関係は訴訟になり、裁判の結果

クララ20歳、ロベルト30歳のときに晴れて結婚ができました。

 

 

クララは夫と美しい愛情で結ばれ、8人の子どもにも恵まれて

妻として母として忙しくも満たされた生活をおくるようになり、

自身の世界を守り、名声も獲得していきました。

 

 

 

 

クララの生まれ育ったライプチッヒは、西洋音楽を語る上で欠かせない街で、

音楽の歴史・文化が豊かな都市でした。王侯貴族を中心に発達した

都市とは違い、この街を動かしていたのは常に市民でした。

19世紀に入るとライプチッヒの音楽文化は全盛期を迎えます。

 

 

このころメンデルスゾーンも、世界最古の市民オーケストラといわれる

ゲバントハウス管弦楽団の楽長として音楽の街としての名声を高め、

ロベルト・シューマンとクララの夫妻と親交を深めました。

 

 

クララの愛を勝ち得たロベルト・シューマンは、結婚後の作曲家としての
活動は目覚しいものがあり、作曲のかたわらこの地で音楽誌「音楽新報」を
創刊しました。
 
 

 
 
シューマンは、ベートーベンやバッハの音楽を理想とし、メンデルスゾーンや
ショパンを未来の担い手として絶賛しました。「音楽新報」での評論活動は、
シューマンの作曲家としての才能とともに、評論家としても名声を高めていきました。

 

 

 
現代では最も偉大な作曲家として有名なベートーベンやバッハの
音楽を私たちが聞けるのは、メンデススゾーンをはじめ、ロベルト・
シューマンやクララなど音楽の本質を見極めることのできた
人々が、彼らの音楽を遺そうと必死に努力したからでした。

 

 

 

夫ロベルトの作曲活動に関して、クララは良き理解者・パートナーとして、

また病弱なロベルトをはじめ一家を支える稼ぎ頭としてピアノの演奏家

活動を大いに頑張りました。

 

 

クララは超一流のピアニストで女性のコンサートピアニストとしては第一号と

言える存在でした。夫ロベルトとは真実の愛で結ばれ、強い絆がありました。

 

 

 

 

20歳の若きヨハネス・ブラームスが初めてシューマン夫妻を訪れ

たのは1853年のことでした。その作品を見たシューマンは、すぐ

才能を見抜き、「音楽新報」に「今後彼は、音楽の世界において、

最も大きな感動を呼び起こすであろうと確信します」と、ブラームスを

最大級の賛辞で紹介しました。

 

まだ無名だったブラームスは、このシューマンの言葉で、世にでることに

なりました。

 

 

 

 

ロベルト・シューマンは、生来の持病に加えて音楽活動の精神的疲労が

高じて、ブラームスに出会ってまもなく1854年、ライン河に投身自殺を

計りました。まもなく助けられましたが、自ら望んで精神病院に入院しました。

その後2年間、患者を刺激するということで、面会謝絶になり、クララは死の

二日前にやっと面会できました。

 

 

 

 

クララは夫の入院費と7人の子どもの養育費のために演奏活動に

出かけました。クララにとってその活動は芸術への強い愛着を結びつ

けたものになっていきました。

 

 

 

 

その留守を献身的に守ったのはブラームスでした。若いブラームスは

クララに会ったときから憧れの気持ちを秘めていましたが、シューマン

一家の危機にさいしては、彼は子どもたちの通学や音楽レッスンを、

監督し、家政婦や召使いたちに協力しながら、21歳の青年とは

思えぬほどの忍耐力で幼い子どもたちの世話をしました。

 

 

 

 

ブラームスの心は、ひたむきにクララにむかっていきました。

この頃から、二人の間に手紙がとりかわされるようになって

いき、 このころのブラームスは疑いもなくクララを愛して

いました。

 

 

クララの心のなかにも、やがてブラームスは次第に大きな

位置を占めるようになっていきました。

 

 

 

1856年7月「ロベルト危篤」の報にクララはかけつけますが、

二日後ロベルト・シューマンは46歳で亡くなります。クララ

36歳でした。

 

 

それからのクララは7人の子どもの養育と夫シューマンの作品を

世に紹介するために、膨大なコンサートをこなすとともに、

ドイツだけでなくヨーロッパ内の演奏旅行にあけくれました。

 

 

 

ロベルト・シューマンが亡くなってまもなく、ブラームスは、

クララへの恋心を断ち切るようにしてクララの傍から離れて

新しい人生に踏み出していきました。 

 

 

やがてブラームスのクララに対する激しい熱情は、しだいに、

信頼と誠実さを含んだ暖かい友情へと変化して行き、

それはクララが亡くなるまで続きました。

 

 

シューマン夫妻の苦難は、若きブラームスの感受性を

鋭く刺激し、その作品に大きな影響を与えることに

なりました。人生における光りと影、運命に翻弄され、

追い詰められていく人間の悲哀。それらを通して、

ブラームスは人生に対する深くて豊かな理解を

学んでいきました。

 

 

 

 

夫ロベルトの作品を世に紹介することを自分の使命と考えた

クララは、追われるように演奏活動を続けました。

当代一のピアニストのクララの懸命な活動によって、シューマンの

曲は社会に広がり、シューマン全集の編纂にもあたりました。

 

 

 

クララは作曲も手がけ、9歳から夫が精神病院に入院するまでの

間に、ピアノ曲や歌曲など50曲以上作曲し、その多くが出版

されています。

 

 

 

 

ブラームスは40年にわたるクララとの結びつきの間、自作を出版

する前に、必ず未発表の楽譜をクララに届け批評を乞いました。

出版によって作品が一人歩きをする前に、最も確かで信頼できる

第三者の目に判断をゆだねていました。

 

クララもブラームスの期待に応え、隅から隅まで目を通して助言をし、

その関係はクララの死まで続きました。二人の友情はブラームスの

音楽に影響を与えました。

 

 

 

 

クララが5歳で始めたピアノは、9歳のころには演奏会に出演、

12歳になると初の演奏旅行にでかけるほどまでになり、16歳に

なるころには天才児としてヨーロッパ中から歓迎されるようになり、

結局70年近くもの間演奏活動を続けました。

 
 
クララはその間に、当時すっかりうずもれてしまっていたバッハの
曲を演奏のプログラムに加え、当時まだまだ敬遠されていた
ベートーベンの曲を最初に公開演奏をし、ショパンの楽曲を
ドイツに紹介し、メンデルスゾーンと協力して、古典復興運動の
さきがけをなしました。

 


 

その一方では、夫の曲を演奏し、日記なども出版しました。彼女はこのような

多彩な活動を約70年の長きにわたって続けました。クララの「人間」としての

深みが、シューマン及びブラームスの音楽性の重要な部分を引き出したすれば

そこに見えてくるのは、温かく誇り高く清らかに生き抜いたクララの生き様であった

といえるのではないでしょうか。クララ・シューマンは1896年76歳で亡くなり、

その1年後、クララの後を追うようにブラームスが亡くなりました。

 

 

天才少女として全欧に謳われた少女時代、病身な夫ロバートとの結婚生活、

苦難な未亡人時代を通じ、身も心も音楽に捧げ、音楽に生き、音楽に影響を

与えたクララ・シューマンが、どれほど聡明で魅力的な女性であったか、

今となっては伝記を通して想像するしかありませんが、私が若いときに憧れ、

今もその生涯を見つめる時に、胸が篤くなる稀有な女性の物語りをこれで

終わりたいと思います。

 

 

参考資料   真実なる女性クララ・シューマン   原田光子

         戦前に発行された伝記ですが、今も第一級の伝記と思います。

 

写真 その他はインターネットより引用