11 Dec. 2014

「グレースケリーを偲ぶ」

川島道子


 * BGMは 映画「上流社会」から・・・

最近モナコ公妃グレースケリーを描いた映画が上映されて話題に

なりましたが、グレースケリーのハリウッドでの女優としての活動は

1951年から1956年までで、作品の数も11本、そして30年

以上前に亡くなった女性についての新たな映画が、現在上映された

ことに驚きました。今なおグレース・ケリーへの関心があると言う

ことでしょうか。

 

グレースケリーの女優としての全盛期に映画ファンとして過ごした

私は、同時代のオードリー・ヘップバーンやマリリン・モンローの

方に鮮烈な印象を持ちました。しかし作品の数は少なくても洗練

されたグレースケリーの美しさに惹かれてその映画はほとんど見て

きました。

 

 

グレースケリーは、建築業の父とモデル出身の母の裕福な家庭に

生まれ育ちました。父はスポーツマンで2度のオリンピックのボート競技で

合計3個の金メダルをとり、それをバネに一介の煉瓦職人から億万長者と

なりました。こうした父の生き方からくる実績は、強固な信念となり、その

価値観は、グレースケリーの人生に大きな影響を与えました。

 

グレースケリーは兄と姉、妹にはさまれて、幼いころは病気勝ちであった

せいもあって引っ込み思案で不器用な少女でした。父親のジャック・ケリーは、

4人の子ども達のうち一人息子に、親としてのエネルギーや野心、活力の

すべてをつぎこみ、自分と同じボート競技の選手に育て、オリンピックでの

メダルを期待しました。息子はオリンピックで銅メダルを取って父親の期待に

応えました。

 

父ケリーの一番のお気に入りは長女で、そうした感情をかくそうとも

せず、スポーツマンの父親は、自分の運動面での才能を受け継いだ

息子と長女と三女は関心を持ちましたが、病身で目立たないグレースは

評価せず理解もしませんでした。
 
 
 

病弱なグレースは幼いころから本や芝居が好きで、空想癖の性格

を育んでいましたが、父ケリーは知性や芸術を軽蔑していたので、

そうしたグレースを理解しようとも心を通わせようともしませんでした。

 

グレースは父親から与えられない愛情と関心を母親から得ようと

しましたが、母親は信仰や社交場の礼儀作法、競争心や野心、決断力

などを教え込みはしても、愛情を十分に注ごうとはしませんでした。

父に褒められ評価されることを常に期待していましたが、その願いは

叶うことはありませんでした。

 

幼いころは病気がちだったグレースも成長するにしたがって

健康になり、スポーツにも親しみ、少女期には持って生まれた

美しさが輝きはじめ、同年齢の男の子たちの人気のまとに

なってきました。内向的で芸術に興味を持ったグレースは、

演劇に関心を深めていきました。

 

高校を卒業したグレースは両親の反対を押し切って一人でニューヨクに出て

演劇学校に入り、2年間修行した後、舞台女優をめざして、モデルの

アルバイトをしながら経験を積み、1949年舞台劇「父」でブロード

ウエイデビューをしました。

 

 

1951年22歳の時出演した映画「14時間」を見た製作者に認められて

ゲーリー・クーパーの「真昼の決闘」の相手役に抜擢され、グレース・ケリーの

本格的デビュー作品になり、ゲーリー・クーパーはこの作品でアカデミー

主演男優賞を得ました。

 

 

 

ちょうどその頃、「駅馬車」で知られるジョン・フオード監督がクラーク・

ゲイブル、エバ・ガードナー主演の「モガンボ」を製作を計画していて

グレース・ケリーの育ちの良さやその可能性を評価して、もう一人の主役に

起用しました。

 

 

「モガンボ」でのグレース・ケリーについて批評家は「久しくスクリーンでは

見られなかったような、非常に美しく、貴族的な俳優である。彼女の特筆すべき

資質は、名門の出だが尊大でなく、教養があっても堅苦しくない、きわめて感情が

豊かだが、それをあまり出しすぎていないところにある。この評価はその後の

グレースケリーの全作品に共通するものになりました。

 

 

1953年「モガンボ」が封切られると、グレースは一躍マスコミの寵児に

なり、その年のアカデミー賞にノミネートされ、一方「ルック」誌の53年

「ベストアクトレス」に選ばれるなどハリウッドの花形になりました。

1953年「モガンボ」が封切られると、グレースは一躍マスコミの寵児に

なり、その年のアカデミー賞にノミネートされ、一方「ルック」誌の53年

「ベストアクトレス」に選ばれるなどハリウッドの花形になりました。

 

グレース・ケリーの人気を決定づけたのはサスペンス映画の世界的監督

アルフレッド・ヒチコックでした。グレースの人をひきつけるある種の

魅力に心うごかされ、グレースのどこから見ても洗練されたレディー

でありながら反面セクシーな感じを与えるその二面性にヒチコックは魅了

されました。グレースの身だしなみの良さで包まれたセックスアピールと言う

相反する個性を初めて生かしたのはヒチコックでした。

 

 

不貞をはたらいたために夫に殺されかけた人妻を描いたヒチコックの

「ダイヤルMを廻せ!」によって、グレースは大スターになるきっかけを

掴みました。グレースはヒチコックがこれまでの20年間の映画製作で

自ら学んだことを、文字通り手取り足取りで指導を受け、その才能が花開いて

行きました。

 

次作ヒチコッくの「裏窓」はグレースの本当の持ち味を生かせた作品に

なりました。足を骨折して、車椅子の生活を余儀なくされているカメラマンの話で、

退屈まぎれに望遠レンズで隣人たちの生活を追っているうちに殺人事件にまき

こまれると言う内容でした。共演はジェームス、スチュアートでした。

 

 

ヒチコックはグレースに「裏窓」のシナリオ通りヒロインを演じさせる

のではなく、逆にグレースのはるかに魅力的な特性を強調するような

ヒロインをグレースに求めました。ヒチコックも脚本家もグレースの

とりこになり、ヒチコックはグレースの魅力を「セクシュアルエレガンス」

と表現しています。

 

 

控え目で静かな外見の下には、ぴちぴちと生命力にあふれたグレースには

仕事をともにする多くの男性をひきつけるものがあり、信頼を勝ち得て

いきました。グレースの仕事ぶりは、すぐに彼女がハリウッドでいちばん

良心的で、思いやりのある女優の一人だという評判を生み、撮影スタッフ

からも好かれ、これは彼女のすべての映画について言えることでした。

 

 

「裏窓」が封切られるとグレース・ケリー旋風が吹きまくり、その年の

末には彼女はハリウッド最大のスターになっていました。

ヒチコックは「彼女はこれまで、ただ主役の女性を演じてきただけ

だが、いつかはその映画の主題を形づくるキャラクターーを演じ

なければならない。それが彼女の試金石になるだろう」と言っていました。

 

その試金石となった作品が「喝采」でした。アル中で廃人同様の状態にある

俳優の若い妻が、夫のために自分を犠牲にしに、虐待と心配の連続で疲れきった

生活を10年も送っているなかで、気鋭の演出家に出会い、夫を見事カムバック

させるストーリーを、グレースは演じきり、1955年、アカデミー賞の主演

女優賞に輝きました。

 



グレースは彼女の向上心を認めない父にたいして「これで私もやっとケリー家の

一員になれた」と涙を流して喜びましたが、父親のジャックは長女のメグ

だったらグレースよりうまくやっただろうと語り、グレースは、父親の無神経さに

深く傷つけられ、いくら成功しても、父からは正統に評価されないのではと絶望的な

気持ちになりました。

 

次回作はヒチコックの「泥棒成金」で、ケーリー・グラントとの共演に

なりました。引退した宝石泥棒(ケーリー・グラント)が、自分の名をかたった

偽者の宝石泥棒をつきとめていく話で、グレースは大金持ちの娘を演じ南仏

リヴィエラを舞台にグレース・ケリーの美しさをたっぷり楽しめるユーモアに

溢れた映画でした。

 

 

南フランスの魅力に惹かれたグレースは、カンヌ映画祭の招待を受け出席

することになりました。そこで運命の人、モナコのレーニエ大公に出会うことに

なりました。モナコ公国は小国ながら国の歴史は古く、歴代の君主の努力で

独立国として存在を保っている国ですが、小国ならではの国の運営は厳しく、

後継者が無いとフランスに併合される状況に、独身のレーニエ大公は行き詰り

を感じていました。

そこで出会った、グレース・ケリーの品のある美しさと聡明さに惹かれ、

未来の公妃として結婚を申しこみました。グレースもレーニエ大公の魅力に

結婚を承諾しました。それまでにグレースは多くの恋愛経験はありましたが、

いざ結婚となるとことごとく家族の反対にあい、挫折感にうちひしがれて

いました。

 

 

輝かしいキャリアを持ちつつも、自分に自信が持てなかったグレース、その裏には、

最も認めてほしい父から認めてもらえないというコンプレックスがありました。

グレースがレーニエ大公と結婚した理由の一つには、父親に「自分がモナコ公妃と

なれば、父親が喜んでくれるのでは」と言う思いもあったのでは、と言われています。

ようやく父にも認められる対象者が現れて、グレースの結婚をして多くの

子どもを得たいという願いは実現することになりました。

 

1956年4月18日法律上の結婚式、19日はカトリックに基ずく宗教上の

結婚式が盛大に行われました。グレースの場合、結婚式は新たな試練の始まり

でした。アメリカとヨーロッパ、一般人と王室、しきたりも風習も考え方も

全く違う環境に、本音を話せる友人もおらず、寂しい生活が始まりました。

 

 

モナコの国民もアメリカ人が突然公妃になったことをすぐには受け入れられず

またフランス語がほとんど話せず、口数が少ないグレースは「冷たい人物」と

思われていました。ハリウッドで仕事の達成感を経験してきたグーレースは、

王宮での生活に、次第に精彩をなくしていきましたが、それを救ったのは

子どもの誕生でした。次々に王子と二人の王女に恵まれ、グレースが望んで

いた「暖かな家庭」がやっと得られました。

 

 

映画への復帰を切望しましたが、立場上実現せず、晩年はボランティアの

詩の朗読会に生き甲斐を見出していました。困難だった子育ても一段落し、

モナコの国家的危機を乗り越え、小国モナコのためにつくし、レーニエ大公

とともにモナコの地位を高めて安堵したグレースは、1982年9月13日

外出の帰りに自らハンドルを握った車で崖から転落。同乗していた公女は一命

をとりとめましたが、グレースは危篤状態になり、翌14日に亡くなりました。

52歳でした。

 

 

幼いときから求めても得られない父からの評価や認められることへの渇望は、

形を変えて年上の男性との恋愛感情へとなり、ゲーリー・クーパーをはじめ

クラーク・ゲイブル、ウイリアム・ホールデン、ケーリー・グラントなど

映画で共演したハリウッドのそうそうたる大スターと恋におちいりました。

仕事をともにした映画関係者のほとんどはグレースの俳優としてのプロ意識と
人間性に好意を持ちました。
 
 

グレース・ケリーの主演映画11本のうち3本はヒチコックの作品で、彼女は

文字通りヒチコックのミューズとなり、その輝きはスクリーンに永遠に焼付け

られています。没後30年たった現在、「グレースモナコ 公妃の切り札」が

作られたのは、トラウマを秘めながらも輝き続けて、今も多くの人々の心に残る

類まれな美しいグレース・ケリーへの賛歌ではなかったのではないでしょうか。

 

 

私は彼女の映画を「緑の火」をのぞいてすべて見ましたが、好きなのは「裏窓」

と「喝采」で、あまり評判にはならなかった「白鳥」も印象に残っています

そして人生の最後にモナコ公妃となったグレースは、誠実で意志強固で忍耐

強い公妃を演じたのではないでしょうか。
 
同時代にグレース・ケリーの映画を楽しんでいるときは気がつかなかった彼女の
人生に秘められていた哀しみは、いまあらためて心に響いてきます。