30 Sep. 2010

私が心惹かれた女性たち
                        Part−1     川島道子
 
私が若いころから心惹かれていた女性たちを名画とともに紹介して行きたいと思います。
神話や伝説、歴史上実在した女性などさまざまですが、どうか最後までお付き合い
ください
 
 
悲劇を生き抜いたアンドロマケ
 
アンドロマケはギリシャ神話やホメロスのトロイア戦争を描いた叙事詩「イーリアスに登場する女性で、
トロイア方の英雄ヘクトルの妻として知られています。今から3000年以上昔の伝説上の女性であり
ながら、「イーリアス」を題材にした古代ギリシャの悲劇作家エウリピデスや17世紀フランスの劇作家
ラシーヌによってアンドロマケの悲劇が描かれていて、今も私たちを惹きつけています。
 
 
 
トロイア戦争はトロイアの王子パリスがスパルタの王妃で世界一の美女ヘレネと恋に落ち、トロイアへ連れ帰った
ことがきっかけとなり、怒ったスパルタ王はヘレネ奪還のためにギリシャの国々に呼びかけて兄のアガメムノンを
総大将にしてトロイアを攻撃したのが始まりでした。
 
 
 
 
ギリシャ連合軍には英雄アキレスをはじめ名だたる勇士が揃い、怒涛の勢いで攻め寄せましたが、トロイ方も
知勇兼ね備えたヘクトルのもとに結集した力で迎え撃ち、戦いは一進一退で決着がつきませんでした。
 
 
 
 
ヘクトルはトロイア王の第一王子で武勇に優れ、思慮深く、妻のアンドロマケとの間に一子アステュアナクスを
もうけ老齢の父プリアモスに代わりトロイア方の総大将として活躍していました。
 
 
 
戦いは10年におよび、ヘクトルがアキレスの親友バトロクロスを討ったことで、怒り心頭に発したアキレスが
ヘクトルに戦いを挑んできました。夫ヘクトルの死を予感したアンドロマケは泣いて出陣を止めました。
 
 
 
 
ヘクトルとアキレウスの一騎打ちの行方を、アンドロマケは我が子アステュアナクスを抱きしめながら、城中で
待っていました。
 
 
 
 
家族を愛し、トロイアの運命を一人で背負ったヘクトルとアキレウスの戦いは、激闘の末ヘクトルが
アキレスに討たれ、アキレスはその死体を戦車にしばりつけて戦場を引き回しました。
 
 
 
老齢のプリアモス王は従者一人を連れて、アキレスの陣営を夜ひそかに訪れて我が子ヘクトルの
遺体を返してくれるように涙ながらに懇願しました。アキレスは老王の姿に涙して遺体を返しました。
 
 
 
 
この勝負で戦いの行方はほぼ決まり、ギリシャ軍の木馬の計略によってトロイアは落城
して滅亡しました。負けたトロイア方の男は殺され、女こどもは奴隷とされてしまいました。
王家の女たちはギリシャ側に配分され、アンドロマケはアキレスの子ネオプトレモス
によって愛児アステュアナクスは殺され、自分はネオプトレモスの妾になりました。
 
 
 
 
国が滅び、夫や子どもを殺されたアンドロマケは、敵将の所有物になるという過酷な運命を
受け入れて、やがてネオプトレモスとの間に3人の子をもうけ、ネオプトレモスがミュケナイ王に
殺されると生き残ったトロイの王子ヘレノスと結婚したと言われています。
 
 
 
 
アンドロマケは悲しみの底から立ち上がり、困難から逃げることなく新しい環境の中で生き抜いて
いきました。私がアンドロマケに惹かれるのは、運命に翻弄されて悲しむだけの弱い女性でなく
その運命を受け入れる勇気と信念を持っていたからでした。多くの戯曲や絵画に描かれた
アンドロマケは伝説上の女性ですが、その生き様によって今なお心惹かれる存在となっています。
 
トロイア戦争については下記のサイトをごらんください。
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
 
 
 
 
 
フランスを支配した奇跡の美女
 
 
 
ディアーヌ・ドポワチエは、フランス国王アンリー二世(1519−1559)の愛妾で、国王とは母と子
ほど年齢が離れていたにもかかわらず、その寵愛を独占して終生愛され続けた奇跡の美女です。
ディアーヌは15歳のときに40歳年上の大貴族と結婚して、フランソワ一世の宮廷に仕えるように
なりました。ディアーヌは17年間の結婚生活で二女をもうけ30代はじめに未亡人となりましたが、
敬愛していた夫への哀悼の意を表して、それ以後一生黒と白の衣装で通しました。その喪服が
透けるような白い肌に似合っていたそうです。
ディアーヌ・ドポワチエ
 
アンリー二世は少年時代(7歳)に、人質になっていた父フランソワ一世の身代わりになって、
スペインに向かうとき、亡き母に仕えていたディアーヌが、少年を哀れんで別れのキスをしましたが、この
ときが二人の初めての出会いで、ディアーヌは少年のアンリ二世にとって忘れえぬ人になりました。
やがて帰国したアンリ二世はフィレンツェのカトーリヌ・メディチと結婚をしましたが、イタリアからはるばる
嫁いできたカトーリヌは夫のかたわらで微笑む愛人ディアーヌの存在に衝撃を受けたと言われています。
 
 
アンリ二世
 
即位したアンリ二世はディアーヌを公式の愛人(寵妃)にしてひとときも傍から離そうとは
しませんでした。カトリーヌは次々と子どもを生みながら、夫の死までディアーヌの存在に
苦しめられましたが、カトリーヌはその知性と献身で王妃の座を守り抜き、アンリ二世も
カトリーヌを信頼していたようです。
 
 
カトーリヌ・メディチ
 
ディアーヌの美しさの秘訣は、規則正しい健康な生活でした。彼女は毎朝6時に起き、
水風呂にはいってから、一時間あまり馬を走らせ、帰って一休みして食事をするのが
きまりでした。若いときから晩年にいたるまでクリームも白粉を一切用いなかったと言われて
います。
 
 
 
ディアーヌは、放縦な雰囲気の漂うフランソワ一世の宮廷にあって、40歳近くまで浮いた話
ひとつない身持ちの正しい生活を送っていました。正式の王妃が居ながら人目もはばからぬ
アンリー二世の愛によって、ディアーヌは自らはそれほど政治的野心があったわけではありま
せんが、結果的にアンリ二世とともにフランスの実質上の支配者になっていきました。
 
 
アンリー二世は彼女の意を迎えるために、絶えず高価な贈り物をしなければなりませんでした。
金銀や宝石はむろんのこと、ヴァランティノア公爵夫人の地位や、代々フランス王家のもので
臣下に譲ることのできなかったロワール河畔の美しいシュノンソー城までを贈りました。
 
 
 
ディアーヌをモデルにした、狩の女神ダイアナ(ギリシャ神話のアルテミス)や、ローマ皇帝ネロの
妃ポッパエア像などその美しい容姿が後世に伝えられました。
 
 
 
アンリー二世が高価な贈り物を次々と贈り続けたのは、ディアーヌの魅力がいかに大きかった
かを雄弁に物語っています。
 
 
 
三十歳の女性が十歳の少年を魅了するのはそれほど困難なことではないかもしれませんが、
六十になってなお四十歳の男性を虜にするのは通常考えられないことです。彼女の魅力は
それだけ歴史上まれなことだったといえます。
 
 
 
アンリ二世は娘の結婚式の騎馬試合での怪我がもとで四十歳でなくなりました。ただちにディアーヌは
アンリー二世のそばから遠ざけられ、王妃カトリーヌによって国王から贈られた財宝とシュノンソー城の
返還を求められました。ディアーヌは自分の城アネ城に隠棲してそこでひっそりと亡くなりました。
 
 
シュノンソー城
 
「最も情熱的な恋とは、男性の場合はつねに最初の恋であり、女性の場合は、つねに最後の恋である」
というバルザックの言葉は、ディアーヌ・ド・ポワティエとアンリ二世の華麗な恋物語にあてはまるのではない
でしょうか。ディアーヌのために苦労した王妃カトリーヌ・メディチはアンリ二世の死後、次々と即位した3人
の息子たちの摂政として政治の世界で活躍していきました。
 
 
フランスにはただの愛妾ではない、公式の寵妃というものが存在しました。妻とは別に、対外的にも国王の
パートナーとして認められた存在で、公式行事への参加はもちろん、サロンを取り仕切って国内外の有力者
と会見したり、大臣の任命に口出しする権利すら持っていました。フランソワ一世のころから始まったと
言われています。後のポンパドール夫人が有名です。
 
 
 
白い結婚をしたレカミエ夫人
 
 
レカミエ夫人といえばナポレオンを描いて有名なダヴィッドやその弟子のジェラールの絵で知られていま
すが、私もこの2点の肖像画によって関心をもちました。18世紀末のフランス革命期から19世紀
なかばのロマン主義時代を生き抜いたジュリエット・レカミエは15歳で42歳の銀行家のレカミエと
結婚しました。
 
 
のちにスエーデン国王になるベルナドッドは彼女について「その美しさと優雅さはヴィーナスにも比す
べきもので、あたかもオリンポスの山上から下界へ降り立ったような女性」と表現しています。
絶世の美人の上に、こまやかな心遣いと魅力的な社交性の持ち主であるレカミエ夫人のサロンは、
パリで最も知的で洗練された、最もにぎやかな集会場の一つでした。
レカミエ夫人は革命後の新しいエリート階級の社会的地位の向上を象徴する人物でした。
 
 
 
 
レカミエ夫
ダヴィッド ルーブル美術館 

レカミエ夫人は「限りなく輝かしい魅力と石のように冷たい心を持った無慈悲な美女」「心臓という
器官を持っていない女」「最も激しい情熱にも最も少ない報いしか与えない女性」などと言われて
いました。それにもかかわらず、彼女の開いたサロンには皇帝ナポレオンの弟やプロシヤの公子、
フランスの大貴族、哲学者、歴史家、作家などが集い、求婚者になりましたが一人も成功
しませんでした。
 
 
靡きそうで靡かない相手というのは男性にとって最も始末が悪いと言われています。このような
レカミエ夫人には誰の愛も受け入れることのできなような何か特殊な事情があったのではと当時
からいわれていました。
 
 
「カルメン」の作者メリメは「どうか彼女のことは悪く思はないで貰いたい。非難されるよりもむしろ
憐れまれるべき存在なのだ。彼女にとってどうにもならない不可抗力の事態なのだ。可哀想な
ジュリエット、彼女はどんなに苦しんだことだろう」と言っています。
 
 
 
 
レカミエ夫人
フランソワ・ジェラール 

多くの研究者はジュリエットの不思議を医学的、生理学的理由によって説明しよう
と試みましたが、それは想像の域を出ず、たしかなのは彼女の結婚は「完全なる
結婚」ではなくて単に名目だけのいわゆる「白い結婚」であり、しかもそのことが当時
から、少なからぬ人々の間で話題にされていたようです。ジュリエットはレカミエの
娘ではないかと言われていました。
 
 
革命のさなか明日をも知れぬ時代にレカミエは財産を残す手段として娘のジュリエット
と結婚したのではと推測されています。二人の結婚した1793年にはルイ十六世と
マリー・アントアネットが処刑され、夫のレカミエはその処刑を目撃していました。
 
 
莫大な財産を守るための非常手段はジュリエットから女性としての、少なくとも妻と
して、母としての幸福を奪ってしまいました。レカミエが無理をして娘に伝えようとした
財産は、無くなり無一文になったジュリエットは隠棲した修道院で亡くなりました。
 
 
ジュリエット・レカミエ夫人の在りし日の姿はフランス帝政期の画家ダヴィッドとジェラール
によって現代に伝えられています。