12 Apr. 2010

 
エビータとは     Part2   川島道子 
 
 
 
エビータの帰国をブエノスアイレスは、街をあげて歓迎しました。ヨーロッパと
アルゼンチンのかけ橋としての「虹の旅」は一定の成果はありましたが、一方
スイスでの黒い噂やその他さまざまな手落ちや失敗もあり、反ペロン派がそこを
ついてくることは目に見えていました。彼女にとってデスカミサドス(労働者にたい
しての親愛の呼称)との連帯と活動は急務になり、その後のエビータの活動の
原点となりました。エビータはアルゼンチンで真の権力を獲得した初めての女性と
なり、「虹の旅」はさらに彼女の神話を生む要素となりました。

 
 
帰国後デスカミサドスと挨拶をかわす

目にみえて変わったのは髪形や衣服でした。それまでのエビータはポンパドール風に
結いあげた髪型の流行を取り入れたプリンセス風の衣裳や宝石の数々に包まれて
いましたが、労働者贔屓の言葉とそのファッションは矛盾し始めていました。
一方でエビータはたくみにマスコミを利用してそのイメージを作りあげることが、
何よりも彼女の影響力を強めるのに効果があることを知っていました。政府は、
エビータのイメージを、世論を統一するのに効果的な道具として利用して、エビータを
伝説にまで祭り上げることで国家のアイデンティティを作りました。そういうエビータは、
女性の公式の場への進出をはたして新しい大衆文化のカルト的存在となりました。


 
プリンセス風の装い

こうしたことを可能にしたのがエビータの素晴らしい魅力的な写真うつりでした。
アルゼンチンの政治史の中で、エビータほど写真を多く撮られた者はいませんでした。
エビータの容姿こそが写真を政治宣伝にするということをもたらしました。彼女は最大限に
自分の写真を活用し,映画館でのニュース映画に挿入してアピールしました。エビータの
イメージ戦略はたくさんのゴシップを生みだし、上流社会は彼女を侮蔑し、中流階級は
彼女を真似し、労働者階級は偶像に押し上げました。上流社会にたいする反発は終生
かわらぬ憎悪となり、その後の彼女の価値観と行動に大きく影響しました。



お抱えのヘアーデザイナーと

エビータは大統領夫人として最初のころは、自分の容姿が中心で、目指すのはハリウッド的
な洗練で、女優という職業を、大衆を誘惑する道具として使用していました。エビータはやが
て状況に応じて常にスタイルを変える必要があることに気づき、労組の指導者や老人ホーム、
孤児院の訪問と華麗な社交の場では衣裳を使い分けるようになりました。


ヨーロッパ旅行前の過度に飾りたてた姿

エビータのこうした衣裳の使い分けは、どんなに貧しい労働者にも立身出世は夢ではないと
いうメーセージを伝えることになり、女性ペロン党の設立とともにファッションは、女性が新し
い可能性を実現できるものとして見られるようになりました。エビータはシーズンごとに女性
指導者に新しいスーツを贈りました。彼女はヨーロッパから帰国すると帽子は無意味として
使わなくなり、束髪にしていきました。束ねられた髪が国民に仕える活発な女性のイメージ
を明確にして、身体にぴったりしたスーツとともにエビータのイメージが確立し、この束髪ス
タイルはペロン政権のシンボルとなりました。


教会での姿 母ファナとともに

エビータの衣裳の使い分けは国の公式行事に参加する儀式用の「エバ・ペロン」と社会的、
政治的にたずさわる「エビータ」としても生かされていきましたが、ヨーロッパの旅から帰国した
後は、エビータを演じることが多くなり、彼女は組合や女性、貧困者にたいする活動をすすめ
気がつくといつのまにか、そうした人々の組織を手にしていました。ペロン大統領の労働者の
保護や社会保障の充実、鉄道などの外国資本の国有化を掲げた政策はペロン主義(ペロニ
ズム)として、多くの労働者の支持を集め、その支持者たちはペロニスタと言われ、エビータは
常にペロンの政策にしたがって行動していきました。


1949年コロン劇場での「愛国大会」に出席するペロン夫妻

エビータはヨーロッパから帰国後一月ほどして1947年9月に女性参政権を宣言しました。
アルゼンチンでは30年前から論議されて運動もされてきましたが、ペロン大統領の登場に
幾が熟して実現し、政府はその業績をエビータとペロン主義のみがなしえたものであると宣言
しました。エビータは厳密には男女同権主義者ではありませんでしたが、女性が政治の分野や
公的な活動の場への進出の後押しをして、そのことはアルゼンチンにおいて女性の真の革命
の引き金になりました。エビータの次の仕事は参政権を手にした女性の力を結集させることで、
1949年7月女性ペロン党を発足させました。


クリスチャン・ディオールのデザインしたドレス

1500人が参加した結成総会ではエビータは熱狂的に迎えられ党首となり、初めて政党の党首に
なりました。女性ペロン党の目標は社会救済にあり、数日のうちに国中に支部ができ、どんな小さな
町にも女性ペロン党の会館がありました。エビータは党首とともにもろもろの職務を一任され、その
存在はたちまち国中に知られるようになりました。エビータはつねにペロンに寄り添いながら、男性
とは一線を画して党を支配して、ペロンに忠実な女性党員を作り出し、1952年までに女性党のメ
ンバーは 50万人に達し、3600の本部ができるという驚くべき成果をおさめました。政党としては
輝かしいスタートでした。


財団の活動 自転車を贈る

党員たちはどこに居ようとどんな事情があろうと、国内各地へ飛んで、登録と教化のための本部を
作らなくてはなりませんでした。生活を投げ打つ覚悟のある者だけが党員に選ばれました。
テストに合格した女性たちは、エビータの熱狂的な支持者になりました。ペロンとエビータにとって
大衆とは、1945年10月17日のできごとの原動力であり、国民の望む法律を示してくれるもので
あり、大衆の前に立てばそのエネルギーをじかに感じることができました。この記念日には、
ブエノスアイレスの通りはバスやトラックで渋滞し、デスカミサドス(労働者たち)たちが大きな横断幕
をかかげて行進して100万人以上の群集が集まりさまざまなイベントを行いました。


演説するエビータ

当初、大衆の前でスピーチを行ったのはペロンだけでしたが、1948年にはエビータも演説する
ようになりました。エビータは最初のころはスピーチがうまくなくて、声が高く単調でしたがやがて
人前で感情を伝える技術を完璧にマスターして、彼女はペロンの立場で大衆に語りかけ、大衆の
立場でペロンに語りかけていきました。エビータのスピーチはなめらかで、情熱的でドラマチックで
した。原稿を読むのをやめて自分の言葉で語りかけたり、どんなときにも自分の内面を切々と
語りました。しかし演説の内容はしだいにペロンを神聖な存在に高めるために熱を帯び、宗教の
色合いを深めていきました。



ペロン党学校で講義するエビータ

1949年にはペロン崇拝はエビータによって儀式のようなものになっていて、神のように崇められ
ることによってペロンは図に乗り、態度にもそれが現れていきました。報道の自由は奪われ、議会は
効力を失い、少しでもペロンの悪口をいえば逮捕されてしまいました。そのことはペロンの政治に
独裁の色合いを強めていきました。その一方エビータは1948年にエバ・ペロン社会福祉財団を創設
しました。社会福祉の遅れたアルゼンチンでは上流階級による恩恵的な慈善活動としてその穴埋めが
されてきていましたが、1948年の5月までにエビータは全国から救援を求める手紙を15000通受け
取っていたことを重視して、それにかわる組織として財団を作り、法的に認可されました。



群集に手を振る大統領夫妻

財団の規模は年々拡大し、政府の一機関としての重要度も増していきました。活動の計画と実行は
財団の判断にまかされました。政府も財団のプロジェクトを優先し、労働力や資材が不足した場合は、
他のプロジェクトを中断 して融通しました。財団は奨学金を支給し、病院や老人ホ−ムをはじめとする
さまざまな福祉施設を建設しました。当時アルゼンチンでは 、製品が国際市場で高値で取引され、
その財政は潤っていました。 ペロンの経済政策により消費ブームが起こり、人々の気持も大きくなって
いて財団への寄付もすすみました。


 
演説するエビータ

エビータは財団をビジネスでなく使命と考えていましたが、エビータ個人の献金によって 始まった財団は
1年もしないうちに大掛かりな組織になっていきました。エビータはそのころには労働組合のために決定を
下せる立場にありましたので、財団が必要とする資金の大部分を組合から得ることが出来るようになりま
した。財団の資金源は労働組合にとどまらず政府関係機関をはじめ企業や個人、宝クジ、カジノ、映画税、
競馬税と多種多岐にわたっていました。財団はブエノスアイレスに最初のヘルスセンターを作り、 3年後
全国に23のヘルスセンターを計画しました。政府はエビータに保険政策の重要な部分をゆだね、大がか
りなキャンペーンの財源を供給しました。



1948年、財団を視察するペロン

財団の任務は慈善ではなく、社会主義と市民の権利のための奉仕であると宣言しました。1951年
エビータは外科用車と検査用車を遠隔の地に送りましたが、また一方でプロバガンダ用の映画車も
送りました。このことは、医者が訪ねてくることも、映画を見ることもない地方の大衆にとって初めての
経験で、それまで無視されてきた人々にとってその恩恵は計り知れないものがありました。また
エビータは地方の何万もの子どもたちが初めて山や海を見られる修学旅行のネットワークを組織し
ました。おかげで無数の人々が行きかい、多くの子どもたちが新しい経験を求めて旅行するように
なりました。



財団は大量の毛布と衣料を集め全国に配布、倉庫を視察するエビータ

エビータの政治への関わり方は、つねに小規模から大規模へ、個人的な領域から国民生活へと展開
していきました。彼女は貧困の淵にあるアルゼンチンの人々が日常生活の中で何を求めているのかを
発見し、それを実行にうつしました。エビータは来る日も来る日も詰め掛ける大勢の人たちの対応に
追われ、外交官や高級官僚を待たせても貧しい人たちすべてに向き合い、それがやがてエビータを
神格化していくもととなりました。アルゼンチンの医療制度は、人材不足と病院の老朽化で十分に
機能していない状況でしたので、エビータは4年制の看護学校を整備し、国中のインターンを無料で
入学させました。またブエノスアイレスに12の病院を作り、その中の大型の豪華な病院は国内最高の
医師を揃へ、病院列車は全国を診療して周りました。



貧しい人の要求にこたえるエビータ

財団を始めたことでエビータは大きく変わりました。彼女にとって財団での仕事は神聖な使命
でした。彼女がこの「直接援助」に力を入れれば入れるほど、そのスピーチや会話には貧困に
たいする憤りが混じるようになり、エビータは貧困が体を痛めつける傷かのように怒りを口に
しました。もうエビータはヨーロッパを旅行したスターでもなければ、フニンから出てきた若い女優
でもありませんでした。髪を束髪にし、制服のような黒いスーツを着るようになっていて、気品の
あるそのスタイルは彼女によく似合い、質素だが仕事のできる女という印象を与えました。しかし
その風貌は年よりずっと老けて見えたようです。「時間がない」を口癖に、眠る時間を削り身を
粉にして働きました。貧しい人々への献身が、接する者たちに感動を与え、後の「聖エビータ伝説」
につながっていきました



1946年労働者集会にて

財団を通じてペロン政府は、20世紀のアルゼンチンの社会政策を一貫して進めてきました。
ヨーロッパの労働党の政策を全体として取り入れながら、それにアルゼンチン独特の色合い
をつけて立法化することでこれらの政策は完全なものになりました。それらはすべて労働者、
女性、そして子どもの権利を保護するものでした。財団は1940年代半ばのアルゼンチンの
途方もない繁栄の時期に資産を貯めこんでいきました。この時期はペロン主義の黄金時代
でもあり、このアルゼンチンの経済的豊かさがエビータの活動を支えました。


 
ペロンが終生愛した妻と二匹のプードル

ペロンが大統領になって4年目の1950年に、落成式で気を失ったエビータは病院に担ぎ
込まれ盲腸の手術を受けましたが、その間の検査で子宮ガンに冒されていることがわかりま
した。彼女は病気を否定し、退院した後は今までどおり活動を再開して、以前にも増して
猛烈に働きました。エビータはなりふりかまわず働き、具合が悪いときでも仕事はやめません
でした。死期が近づいていることを知って残された時間と戦っているようでした。エビータの
人生には嘘も多かったのですが、彼女はペロンとその政策遂行のために死ぬことを選んだ
のではと言われています。

 
 
挨拶するペロン大統領

ペロン政権においてエビータはペロンにつぐ権力者でした。彼女はつねに副大統領より強い
立場でした。ガス工場や定期船、橋やバスターミナルには、ペロンよりエビータの名前が使
われることが多く、アルゼンチンを支配していうるのはエビータだと言われるまでになってき
ていました。エビータの権力は絶大でしたが、ペロンだけはエビータに影響力があり、その行
動に目を光らせ必要に応じて抑えていました。1951年の大統領選にエビータはペロンの
再選に向けて活動してきましたが、同時に自分の副大統領への道をさぐりながら政治活動を
進めていきました。


 
1949年政治ポスター掲げた労働者

当時副大統領という重要なポストに女性が選ばれることは、どの国にも前例のないことでした。
エビータは口でこそ否定していましたが、内心では望んでいました。しかしアルゼンチンの憲法
では在職中に大統領が死亡した場合、副大統領が自動的に大統領に就任することに なって
いましたので、女性が副大統領になることは当時では考えられないことでした。ペロンは
エビータの副大統領立候補を暗黙のうちに支持していましたので、1951年8月、労働総同盟は
100万人の大集会を開いて、二人の立候補を求めました。しかし軍部と教会の強力な反対を
みたペロンの決断によってエビータは立候補を諦めざるをえませんでした。



1951年8月のエビータの副大統領立候補支持集会

エビータはこの大集会の後体調をくずしたのですが、手術を勧められても拒否し、自分の健
康を無視して1日18時間働きました。この時期の彼女は「私の時間がどんどんなくなってい
く」と脅迫観念に取り付かれたかのように、時間の見境もなく目まぐるしく働いていました。
もう魅惑的な夜会は今や過去のものとなり、身につけていた宝石や金は貧者の救済に
使われ、彼女はルビーとダイヤで作られた紋章を襟につけるだけでした。子宮ガンによる
痛みは増し、やがて死の床に寝付くようになっていきました。



バルコニーで妻を支える大統領

1951年9月軍部の反ペロン派によるクーデターが起きましたが、ペロンはこれを数時間
で鎮圧しました。それには反乱にたいしてゼネストを宣言してデモ行進をした労働総同盟
の支持があったればこそでした。エビータはラジオを通じて国民に感謝するメッセージを
発表し、1951年の10月17日の記念日に衰弱しきったエビータは、夫に支えられなが
ら国民にバルコニーから挨拶をしました。その後ペロンは初めて妻を情熱的に讃えまし
た。その模様をアルゼンチンのテレビ局が伝え、それはテレビによる初めてのエビータの
正式の紹介でした。



1951年11月病院で投票するエビータ

1951年11月全国で大統領選挙が施行され、エビータはラジオを通じて国民にメッセージを
伝えました。それはまるで自分の死を予期しているかのような話し方でした。エビータは病院で
最初にして最後の投票を行いましたが、その投票箱が持ち出されたとき、病室のそとでひざま
ずいて祈っている女性たちが、エビータの投票用紙の入った箱にキスをしていました。その後
エビータは退院しましたが二度と病院には戻ろうとはしませんでした。休息するためにウンスエ
宮殿に戻るとエビータの支持者たちは宮殿の外の通りでその回復を祈っていました。そのころ
には街や村のいたるところでエビータのために祈る姿が見られるようになっていました。

 
 
1952年6月第二期目の就任を宣誓するペロン大統領とともに

1952年7月26日、ペロンと貧しい人々を案じながらエビータは亡くなりました。33歳という若さ
でした。遺体はただちに防腐処理がされて労働省に安置されました。エビータの死が全国民に
告げられると、誰が指示したわけでもないのに、国中がその死を心から悼んでただちに喪に
服しました。映画館は上映を中止し、劇場は舞台を中断しました。レストランや酒場やナイト
クラブがいきなり客を追いだして、シャッターを下ろしたので通りは急に暗くなり、数分もしない
うちにブエノスアイレスの街は暗く静まりかえりました。エビータに別れを告げる人々の列は
絶えることなく、遺体の公開期間を大幅に延長せざるをえなくなりました。一方では国をあげての
大規模な葬儀の準備が すすんでいきました。


防腐処理をしたエビータの遺体

8月9日エビータの棺の蓋が閉じられて砲架に乗せられ、馬ではなく労働組合が選んだ男女
35人の組合員に引かれて国会議事堂にはこばれました。国会議事堂の中でふたたび棺の
蓋が開けられて、エビータに国家元首なみの勲章をあたえた後で、短い時間でしたが民衆は
最後の別れをすることを許されました。翌日の8月10日、労働総同盟や他の労働組合がこの
世紀のペイジェントのために用意した山車に先導されて、 デスカミサドスたちが砲架を引いて、
国会議事堂から大統領府カサ・ロサーダまで向かいました。沿道には多くの群集がつめかけ、
声を押し殺して泣きながら葬列を見送りました。エビータの遺体は墓所ができあがるまで、
エビータの作った労働総同盟の本部に安置されました。


1952年8月9日立法府に向かう葬列

エビータの死から3年後、ペロンはクーデターにより失脚し、スペインに亡命しました。政権を
握った軍部は前政権の業績を次々に葬り、エビータの活動の拠点も破壊していきましたが、
さすがにエビータの遺体には手をつけることが出来ませんでした。その後遺体は国外に持ち
出され行方不明になりました。1973年ペロンが政権に帰り咲いたことで遺体が捜し出されて
故国に帰り、紆余曲折を経た結果、家族の墓地に埋葬されたそうです。

 
エビータの公式写真

アルゼンチンの片田舎に私生児として生まれ、どん底から這い上がってきたエビータは、
上流階級や知識階級から侮蔑され憎まれてきました。一方では身を削るようにして奉仕した
貧しい人々からは、聖母のように慕われていて「聖女か娼婦か」とその評価は両極に分か
れていました。その生い立ちや世に出るまでの苦労などについては、ペロンとの結婚のため
に前半生を偽るなど、生き残りのためにさまざまな策を労してきたことによって、エビータの
生涯は今なを謎に包まれていて、生身のエビータ像を見ることは不可能に近い状況になって
います。

私はこのレポートのために調べれば調べるほど、毀誉褒貶の大きいこの女性にとまどい
ましたが、その動機や政治的背景はわからずとも、アルゼンチンの歴史に一時代を画した
類まれな女性であったことは間違いないようです。エビータの遺体のその後については
機会がありましたら後日述べたいと思います。

 
余談ですが、映画「エビータ」はその脚本が、エビータ批判の立場から書かれていることと、
マドンナの主演ということで、エビータを崇拝するアルゼンチンでは不評だったようです。
 
 
参考資料
 
         エビータの真実        アリシア・ドゥジョブヌ オルティス   中央公論新社
         エビータ            ニコラス・フレイザー          原書房
                          マリサ・ナバーロ
         エビータ
            写真が語る其の生涯 マティルデ・サンチェス        あすなろ書房
         エアビータ           ジョン・バーンズ           新潮文庫