24 Mar. 2010

 
エビータとは     PartI   川島道子 
 
 
1970年代の終わりから1980年代に世界的に大ヒットしたミュージカル「エビータ」を
覚えていらっしゃるでしょうか。1996年にはマドンナ主演で作られた映画「エビータ」も
多くの話題になりましたね。劇団四季の再演で近く福岡公演でも予定されている
ようですが、このミュージカルのモデルとなった実在のエバーペロンをご存知でしょうか。
アルゼンチンの片田舎に私生児として生まれた女性が大統領夫人に登りつめて、
「聖女か娼婦か」と言われた波乱に満ちたその生涯をたどってみたいと思います。
 
 
 
 
本名エバ・ドゥアルテはブエノスアイレスから遠く離れた田舎町に、1919年5人姉妹の末っ子と
して生まれ、未婚の母とたまに訪れる父のもとで貧しい少女時代を過ごしました。7歳のときに
父親が亡くなり、その葬儀に出席を拒否されると言うことがありました。見捨てられた母親は
生計をたてるために、住み慣れた田舎町を離れてよりましなフニンに移り住み、針仕事で5人の
子どもたちを育てました。エバたちは私生児を嫌うカトリックの影響で後ろ指を差されながら
育っていきましたが、このことはエビータのその後に陰を落とし、生涯上流社会への反発となりました。
 
ポーズをとるエバ
 
 
 
 
エバは少女時代から朗読が得意で、映画に熱狂していて将来は女優になりたいと思い、
15歳のときにフニンに来たタンゴ歌手の愛人となって念願のブエノスアイレスに出てラジオの
オーデションを受けたり、ドサ周りの女優をしながら機会をうかがっていました。
当時のエビータは背が高くやせていて目立たない容貌に回ってくる役は端役ばかりで、いつも
お腹をすかせていました。ただ肌の美しさは格別で極貧の中、女性の武器を活用して機会を
つかみ次第に頭角を現していきました。
 
芸能界デビューの写真(1936年)

 
 
 
 
ブエノスアイレスに来てから4年目にしてラジオの連続メロドラマの主役でエバに幸運が訪れ、
人気の高い芸能雑誌に名がでました。映画には機会がありませんでしたが、ラジオの
方は順調にすべりだしました。このラジオがエバの生涯をとおして大きな武器になりました。
ここまでのエバの歩みは女と言う武器を最大限に利用した面はありますが、他に能力のない
女性にとっては、男性優位の社会で男性に伍して活躍できる手段は限られていました。

 
洗練されたイメージ(1940年)
 
 
 
 
映画で目が出なかったエバがラジオで演じた世界史上有名な女性たち、ネルソン提督の愛人
エマ・ハミルトン、エリザベス一世、ナポレオンの皇后ジョセフイーヌ、蒋介石夫人などのシリーズ
番組で、一躍アルゼンチン中に名を知られるようになり、やがて国一番の高給をとるように
なりました。ラジオ番組に影響力のあるスポンサーや軍部の有力者などとの男性遍歴を通して
成功への確実な階段を上がっていきました。
 
愛人時代
 
 
 
このころのエバにとっては自分の進むべき道のために、「恋人」を持つということは、いかがわしい
バーで働くよりは明らかに品位を保てる行為であり、そこから人とのかかわり合いを学んだよう
でした。誠実さとか優しさに代わってシニカルな気質を加えていきましたが、その一方で髪を
ブロンドに染め女としての美貌に磨きがかかり洗練されていきました。このころからエビータの
愛称で呼ばれるようになりました。
 
ラジオで活躍中のエバ
 
 
 
 
エバがブエノスアイレスに出てきた1930年当時のアルゼンチンは、広大な国土を所有していたのは
1804人で、ひとにぎりの特権階級と圧倒的な多数の貧しい人々とに分断されて政情不安が続いて
いました。遠く地球の反対側では世界を二分する第二次世界大戦が始まっていました。国内では
連合国派とドイツイタリア側を支持する親枢軸派が対立し、いままでの保守政権の腐敗なども
あって軍部では危機感を持った将校たちが新たな組織「統一将校団」がつくられ、その中心と
なったのが後にエバと結婚するフアン・ペロンでした。
 
ラジオでの最初の主演作品のころ
 
 
 
 
フアン・ペロンは1895年ブエノスアイレスの近辺の小さな農場に生まれ、16歳で陸軍士官学校に
入り、スポーツマンであると同時にドイツ語とイタリー語を話し、英語も使える教養のある人物でした。
その堂々たる体格に絶えることのない微笑や、臨機応変の機知は人々を魅了していました。
「統一将校団」はクーデターを起こして仲間を大統領にすえ、「統一将校団」の書記長だった
ペロン大左は政権の影の実力者で、新設の労働省の長官になりました。フアン・ペロンは
イタリア大使館の駐在武官時代に、ムッソリーニの演説に感銘を受けていましたので、誰も
やりたがらない労働省長官として労働者と接点をつくり勢力を広げていきました。
 
軍服姿のフアン・ペロン
 
 
 
 
二人が出会ったのは1944年に起きた大地震のチャリティショウの時でした。6000人の
犠牲者を出したこの大地震を自分の勢力拡大のチャンスと捉えたペロン大佐は、サンフワン
救済基金をつくり、俳優たちによるチャリティショウを思いつきました。エビータも募金箱を持って
制服軍人にエスコートされてブエノスアイレスの街を練り歩きました。二人は出会ったときから
お互いの共通点に気づき、積極的なエビータは彼の懐に飛び込み愛人関係となりました。
当時のアルゼンチンの要人は愛人を持つことは当然のようで、二人は自分たちの関係を
隠そうとは思いませんでした。
 
私服姿のフアン・ペロン
 
 
 
 
第二次世界大戦ではアルゼンチンは中立政策をとっていましたが、その政策に不満を持つ
勢力によて政権は絶えず不安定な状態にあり、野心的なペロン大佐はその間隙を縫って、
軍部の一部や最近近づいてきた労働者たちの間接的な支持を背景に副大統領、国防
大臣、労働大臣になっていました。ペロン大佐はみずから労働者のリーダーに会い、彼らの
不満に耳を傾け、数々の労働者保護の制度を定めました。ペロン大佐がアルゼンチンに
おける労働者階級の立場を完全に変えてしまったことは、野心だけでは説明のつかないこと
でした。エビータが後に活躍できたのはこの土台があったればこそでした。
 
ペロンとエビータ恋人時代
 
 
 
 
労働者の肩を持つペロン大佐には、地主や実業家たちは大きな不安を持ち
政府内部では二枚舌を使っているのではと疑問視されていて、彼の好戦的な
振る舞いや支配的な行為に彼を「大草原のムッソリーニ」と呼ぶものもいました。
1945年9月19日、牧場主や中流階級などあらゆる反対派による20万人のデモがあり、
ときの大統領はペロン大佐を逮捕して追放しました。
 
結婚のときの写真(1945年)
 
 
 
ペロン大佐が逮捕されたと知ると労働総同盟は全国に号令をかけ、10月17日にデモを
翌日ゼネストを訴えました。単発的だったストライキは全国に広がりブエノスアイレスは首都
機能を失うまでになり、情勢がペロン大佐に有利に展開する中、水面下で政府との交渉の
結果ペロン大佐は釈放されました。彼が大統領府(カサ・ロサーダ)のバルコニーに姿を見せた
ときには、広場は20万の群集で埋まっていました。勝利の日となった10月17日の行動によって
組合のような組織をもたない労働者階級が、暴力に訴えることもなくアルゼンチンの政治を変える
ことになりました。エビータはこの間ペロン大佐とともに行動してその一部始終を学んでいきました。
 
正装の二人
 
 
 
 
ペロン大佐は大統領選への立候補のために、この年の12月エビータと結婚をしました。
二人の結婚のためにはエビータの出生証明書や名前など、さまざまな書類の記載事項の
変更が必要で、ペロン大佐にも似たようなことがあり、関係者の尽力で一件落着となりました。
その後もエビータが女優であったことを示す書類の極秘の処分やラジオ局での資料の抹消など
エビータは自分の過去をひた隠しにし、そのことにはついては完全に口を閉ざしました。
10月17日の政変の頃からそれまで蔑称だった、「デスカミサドス」(シャツなし人種)は、労働者の
誇りの代名詞となりました。
 
くつろぐ二人
 
 
 
 
エビータは大統領候補者の妻として新しく生まれ変わりました。彼女はこんな自分と結婚して
くれたペロンに感謝し、この国にはペロンのためにデモ行進してくれた人が何十万人もいるのだ
ということに気がつき彼らにも感謝しました。デスカミサドスから受けた恩義は、やがてエビータの
彼らへの献身となっていきます。ペロンは一日の大半をスピーチの原稿に費やしていましたから、
キャンペーンのさまざまな仕事はエビータにまわってきました。はじめは反発をうけていたエビータの
選挙運動もしだいに受け入れらて、終わるころにはすっかり定着していきました。
 
髪型にこだわるエビータ
 
 
 
 
選挙は1946年2月に行われ、1928年以来はじめての公明正大な自由選挙によって、
圧倒的な多数の支持を得てペロンは大統領に選ばれました。当時のアルゼンチンは南米一
の富裕国であるばかりか世界有数の富裕国でもありました。ペロンの当選を確実にした
原動力の陸軍と組合には共通点はありませんでしたが、彼らの支援に頼っていたペロンは
そのための政策に力をそそぎました。強硬な反ペロン派を除くすべての国民は、ペロンが
大統領になったことで長かった政治混乱もとりあえず解決し、アルゼンチンにも民主主義の
時代がやってきたとつかのま考えました。
 
ペロン大統領宣誓式典で、左隣は副大統領夫人 (1946年6月4日)
 
 
 
 
エビータは大統領夫人としてだけにおさまるつもりはなく、早速仕事を開始しました。
工場の視察をはじめ次々と仕事をこなし、やがて労働省の一室で週3日働くように
なりました。最初、エビータのところには、組合関係者が個人的なお願いや金銭的な
援助を頼みにやってきました。エビータは話を聴くと早速行動に移り、要望を実現しました。
エビータは大統領夫人としての立場を利用すれば、問題の解決に政府の乏しい財源を
優先的にまわしてもらえるのを知っていましたし、こういった頼みを聞いてやることが好きでした。
 
労働者とともに
 
 
 
 
エビータは政府と一般庶民との「直接なつながり」となり、その橋渡しをつとめる彼女の重要性は
しだいに高まりました。ペロンは妻を労働党事務局長官に非公式に選ぶことで、直接的な支配を
維持する巧みな策を講じました。エビータにとって、この年は重要な見習いの時期で、まずは慎重に
行動し、自信を深め人々を引きつける力を身につけることが重要でした。エビータの好奇心、情熱
とりわけ並外れた仕事ぶりは、問題にたいする無知を埋め合わせて余りあるものでした。彼女は
低い身分に生まれたことを決して隠しませんでしたので、労働者たちは彼女を自分たちの仲間の
一人だと思うようになりました。
 
直接市民と接する大統領夫人エビータ
 
 
 
第二次世界大戦終了後のフランコ総統のスペインは、ヨーロッパでのファシズム敗北により外交的に孤立し、
ヨーロッパの復興にむけてのアメリカの資金援助も受けられずにいました。スペインと友好関係を維持している
のはアルゼンチンだけでした。さしせまった食料不足の問題を解決するために、大戦のおかげで裕福になった
アルゼンチンのペロン大統領を招待することにしました。大統領は諸般の事情で自分のかわりにエビータを
派遣することにしました。今回の旅行の目的がスペインだけと思われないように、他の国も訪問することに
なり、イタリア、フランス、ポルトガル、スイスから招待状が届き、エビータは信頼する神父に専属の美容師、
衣装係り、マニキュア係り、演説執筆者、お抱えのカメラマン、記者などを引きつれ、夫のペロン大統領を
はじめ全閣僚の見送りを受けて特別機で飛び立ちました。
 
マドリッドの大広場で初めて演説をするエビータ
 
 
 
 
途中からスペインの空軍41機の飛行隊に誘導されてマドリッドに到着しました。空港には30万人の
スペイン人が出迎え、その日からスペインの国を挙げての歓迎が始まり、のべ300万の群集が集まりました。
フランコ将軍はすでにペロンに授けていたイザベル一世十字勲章を授与しましたが、マドリッドは夏の盛りで
したが、エビータはミンクのケープを羽織って王宮に行きました。スペイン政府はその日学校を休みにし、
マドリッドの労働者たちに休日を与えました。宮殿ではエルグレコの作品を織り込んだタペストリー、黄金と
象牙の扇、18世紀のアンティークのスカーフ、たくさんの香水、、モロッコの工芸品などがスペイン政府から
エビータに贈られましたが、これらはプレゼントのほんの一部でした。
 
宮殿で勲章を受けるエビータ、右端はフランコ総統夫人
 
 
 
 
エビータはスペインに15日滞在しましたが、毎日のようにパーティがひらかれ、さまざまな行事が催されました。
エビータが行くところかならず人が群がり、プレゼントが贈呈され、スピーチが行われました。エビータはこの訪問で
唯一目にみえるものを残しました。船一艘分の小麦でした。フランコ総統にとって期待したのは政府借款でしたが、
ファシストのスペインとアルゼンチンの友好が確実になったことには満足しました。後日、待望のアルゼンチンとの
貿易協約が締結されフランコ総統の目的は達成されました。エビータのスペイン滞在の様子はあっというまに
ヨーロッパ全土に伝わり、彼女の名声を広げることになりました。それとともにフランコ政権のスペインとの友好関係へ
の疑問や公式の資格のない一人のフアーストレディの行動などに批判的な声もあり賛否両論でした。
 
エビータに敬意を表する闘牛士たち
 
 
 
 
次の訪問国イタリアは長年にわたって何十万人にも及ぶ移民をアルゼンチンに送り出し、そこで
新しい人生を始めていました。イタリア政府としては新たな移民政策を考えていて、スペインに
劣らないもてなしを進めました。イタリア人がエビータに対して見せた歓待ぶりは当時最大の
ものでしたが、イタリア訪問のクライマックスはローマ法王ピウス12世との公式の会見でした。会見は
20分という短時間で彼女に贈られたのは通例のロザリオだけでしたが、法王との会話はヨーロッパの
アルゼンチンに対する疑念を晴らすのに重要な役割を果たしました。
 
バチカン訪問後のエビータ
 
 
 
 
ヨーロッパ訪問には当初イギリスも入っていましたが、エビータの訪問には当時政権をとっていた
労働党内部で意見がわかれ、保守党は賛成していましたが、紆余曲折の結果時間切れで
エビータの訪問は消えました。イデオロギー的な反感もありましたが、アルゼンチン人は金持ちで
これからももっと裕福になりそうで、成金とさげすまれていたのがエビータへの反感となった側面も
ありました。大急ぎでポルトガルを訪れた後フランスへ向かいました。
 
サンピエトロ大聖堂にて
 
 
 
 
フランスもエビータを最大のもてなしで迎えました。エビータはフランスーアルゼンチン通商条約の
調印にあわせてパリに入り、フランス外務省での調印に立会いました。これによってフランスは
アルゼンチンの小麦と牛肉をたっぷりと買い入れることが出来るようになりました。エビータは
調印式のあとレジヨン・ド・ヌール勲章を授与されました。エビータはフランスファッションに関心を
持っていましたので大使夫人のアドバイスで、ホテルの部屋でファッションショウをすることにしました。
そこでエビータのためにショウが準備されましたが、直前にお付の神父の助言で不安になった
エビータはショウを中止して多くの関係者の反感を買ってしまいました。
 
フランスのオリオール大統領夫人(左)とエビータ
 
 
 
 
フランス滞在中にはランブイエ宮殿でのフランス大統領の昼食会、外務大臣の夕食会、ヴェルサイユ
訪問などが続き、なかでもラテンアメリカ・クラブでのレセプションでは、ラテンアメリカ各国の外交団が
エビータの前に列をつくり、女性たちは膝を曲げてお辞儀をし、三歩さがって挨拶をしました。エビータは
裾を長く引きずった、襟ぐりが深く体の線が際立つ金色のドレスに身を包み、ブロンドの髪に金色のベール
をかけて、大きな宝石をつけたネックレスとおそろいのイヤリングをつけ、腕には宝石をちりばめたブレスレッドを
三つはめているという華麗な装いでした。
 
ベルサイユ宮殿訪問
 
 
 
エビータは次の訪問国スイスに向かいました。スイス政府の真心のこもった対応とは裏腹に、事態は
好ましいものではありませんでした。公用車に石やトマトが投げつけられ、それが外務大臣にも当り、
エビータも衣装を台無しにしました。このスイス旅行は土壇場になってアルゼンチン大使が設定した
ことで、たちまちのうちにこの旅行は、エビータのナチスの資金隠蔽に関与したことになりました。しかし
この噂は推測の域を出ておらず誇張されてつたえられものが多いいといわれています。
 
ファッションモデルのようなエビータ
 
 
 
 
 
エビータの「虹の橋」と言われるこの旅は総じて成功裏の終わったようでした。エビータは新しい
アルゼンチンの栄光を国外に示し、多大な成果を発揮しました。ヨーロッパはアルゼンチンの
裕福で、ヨーロッパの飢えを癒せる国であると確信しました。そして誰もが彼女の変化に気づいて
いました。
 
洗練された美しさ

続く・・・・・