26 Aug. 2015



5月連休の旅(9)  松江城あたりB


松江城の北側から堀沿いに散策しました。



《小泉八雲記念館》


お堀端の角地に建つ小泉八雲記念館です。
1933年(昭和8)に八雲を顕彰して
直筆原稿や初版本のほか、遺愛品、写真等を収蔵・展示する
洋風建築の記念館が開館しましたが
美観保存地区に指定されたため1984年(昭和59)に
木造の武家屋敷風に改築されました。







ちょうど小泉八雲の没後110年を記念した企画展、
「ヘルンと家族」の最中でした。
八雲は松江に来て「ラフカヂオ・ヘルン」と名が表記され、「ヘルンさん」と呼ばれる事を
好んだそうです。




当初は日本に関する記事を書くために来日したヘルンが
松江で生涯の伴侶セツに出会い、家族を持ち、帰化して
54年の生涯を日本で終えた日々が偲ばれる企画でした。

下記画像は妻セツと3男1女の子供達です。

三男 清      長女 寿々子         長男 一雄     次男 巌
                                     小泉八雲記念館 参考画像


ラフカディオ・ハーンは1850年(嘉永3)にギリシャのレフカダ島で生まれ
父はイギリス人軍医、母は地元のギリシャ人でした。
2歳の時に父の故郷のアイルランド・ダブリンに帰り、
やがて4歳で両親が離婚、父は再婚し、彼は大叔母に引き取られます。

16歳の時、イギリスの神学校在学中に事故で左目を失明、
追って父親の急死、大叔母の破産と不幸が続いて退学したのちフランスで教育を受け
やがて1869年(明治2)19歳の時に単身でアメリカのシンシナティに渡ります。

赤貧の中、ジャーナリストの修行を積み、
25歳で当時違法とされていた混血の黒人女性との結婚、2年後の離婚も経験します。
その後ニューオールリンズに移り、評論や編集、西インド諸島での2年間の滞在取材なども手がけ、
アメリカの出版社の通信員として来日したのは1890年(明治23)40歳の時でした。

1889年 来日直前の頃      参考画像



横浜に到着後、出版社との契約条件が原因で結局これを見送り
知人の紹介で島根県尋常中学校の英語教師として
1890年8月に松江に赴任しました。

1891年 松江にて 参考画像



1891年の冬、風邪で病床についていた際に
知人の紹介で世話に当たった18歳下の小泉セツとの出会いから結婚に進展します。

セツは離縁のため実家に戻っていた旧士族の子女で、教養もあり
ヘルンを助けて山陰地方に伝わる民間伝説等の蒐集にも努めました。
とりわけヘルンは怪談に惹かれ、日本独特の霊的な精神文化を見出しました。

1891年(明治24)の11月、ヘルンは松江を離れ、
第五高等学校の英語教師となって熊本に赴任しました。
セツの実母と養父母の生活を支えるために、当時高給が支給された
高等学校に行くことを決めたとも言われています。

1892年 ヘルンとセツ夫人 熊本にて 参考画像


3年間の熊本生活の後1894年(明治27)に、
ヘルンは英語新聞神戸クロニクルの論説担当として神戸に赴任し
そこでセツの将来や、熊本で誕生した長男一雄の国籍問題を考えます。
そして1896年(明治29)日本へ帰化して日本名を小泉八雲と決めました。
 
1895年 長男一雄と共に神戸にて  参考画像



その年、東京帝国大学の講師に招かれて上京した八雲は新宿西落合に落ち着き
次男、三男、長女寿々子が生まれます。

八雲が子供達に英語の手ほどきをした際の手作りの教材が残されています。

小泉八雲記念館蔵 参考画像



こちらは一雄が書いた八雲への手紙です。
明治時代の男の子らしさが現れています。

パパサマエ カヅオ

パパサマハ マイニチ ベンキョウオ アリガトヲゴザリマス。
カヅオハ ヨロコビマス。
大日本一ノ ヤクモサマ。
大日本バンザイ。

パパサマエ カズオヨリ。
小泉八雲記念館蔵 参考画像


セツが作った英単語帳

小泉八雲記念館蔵 参考画像



結局松江には1年3ヶ月という意外に短い滞在でしたが
八雲は生涯この地に愛着を持ち
偏らぬ理解と鋭い感受性をもって異文化を受け入れ
日本文化の独自性を小説や評論により発信しました。

下記画像は1904年に英語で出版された「怪談」の初版です。
これらの多くはセツがわかりやすい日本語で語った話に
八雲が独自の解釈を加えて英語で記したものでした。

八雲は日本で1895年から1905年までに
「知られざる日本の面影」「日本〜一つの解釈」等、合計12の日本研究や小説を出版しました。

1904年「怪談」参考画像



そして早稲田大学の講師に就いた1904年(明治37年)、
八雲は心筋梗塞で急逝します。54年の生涯でした。

八雲は現在東京の雑司が谷霊園にセツと共に眠っていますが
この墓地には夏目漱石の墓もあるそうです。
漱石は奇しくも同じ第五高等学校と東京帝国大学で、八雲に少し遅れて教鞭をとりました。
八雲が1903年に帝大を退職した際、学生らによって留任を希望する運動が起きたとのこと、
そして後任の漱石の授業は人気が無かったそうです。

講義をする八雲はどんな様子だったのか・・・
エピソードはWikipedia を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/小泉八雲



展示室は撮影禁止でしたので、内部の様子はサイトからの参考画像でどうぞ。

参考画像



参考画像



参考画像


最後に記念館入り口の様子です。






《小泉八雲旧居》


記念館に隣接して建つ小泉八雲旧居は
松江中学の英語教師をしていた時に借りていた住居です。




こちらは旧居の古い絵葉書です。

参考画像


当時の庭先の灯篭や、今は古木となった曲がった木も残されています。








書斎の床の間




こちらは八雲が愛用した机と椅子のレプリカです。
八雲は片方の目も極度に悪かったため、丈の高い机を特注して使用していました。



小さな蔵もありました。




旧宅の外に出ると、ゆるく曲がった道が堀沿いに続いています。

松江城の北側から縄のように長く伸びるこの道は塩見縄手と呼ばれ、
かつては中級武士の屋敷が並んでいました。
なかでも塩見家という武家が大層な出世を遂げたことから、それを讃えてこの名が付いたそうです。
松江の中心部にこのような武家屋敷通りが、今なお残されていることに改めて驚きます。





《武家屋敷》


八雲旧居の2軒先が武家屋敷です。

この武家屋敷は江戸時代初期から、松江藩の600石程度の中級藩士が
入れ替わり住んだところだそうです。
建物は1733年の大火以後に再建されたもので
約280年前の姿で保存されています。




入り口の長屋門は武家屋敷の特徴で
中間(ちゅうげん)という住み込みの武家奉公人の住居も兼ねていました。




中間(ちゅうげん)部屋です
いろいろな行灯(あんどん)や、お供の中間が持つ提灯類です。




屋敷内は立ち居入り禁止なので
庭先から建物の中を伺い見るようになっていました。
先ず玄関から時計回りに見ていきましょう。

              武家屋敷のパンフレットより   参考画像


内玄関
家族などが私用に使う出入り口です。




式台玄関
客用の玄関で、間口も広く立派な造りです。




座敷
邸内で最も立派な部屋で、床の間に鎧や兜などを飾りました。




家族部屋
日常の生活空間で、天井も低く質素な造りです。




当主居間
当主は右奥の刀箪笥に刀剣類を多く収納し、有事の際に家来に持たせました。
ケースの中は裃(かみしも)の下に付ける紋服です。




奥方居間
小袖を始め、手鏡や化粧道具、裁縫箱などが置かれています。




小間




納戸
箱に入った各種道具類や糸繰機や天秤などが置かれていました。




長四畳
台所の隣にあり、食事や雑用に使われました。




台所 上がりかまち




台所




井戸




湯殿



中級武士の日常生活はつつましいものだったと解説されていましたが
この邸内の広さはさすがです。
当時のままの生活用品も保存されていて興味深い所でした。


*****


さらに塩見縄手が続きます。お城と堀と武家屋敷が一体となったこの辺りは
もっとも松江らしさが漂うところです。




遠くに堀川に掛かる古風な北惣門橋が見えます。
情緒ある風景です。




ズームです。
ここには明治時代に石造アーチ橋が架けられていましたが
1994年(平成6)、史料をもとに松江城の入り口にふさわしい木の橋に復元されました。。





《明々庵》

塩見縄手から脇道に入り、坂を登ります。

明々庵は1779年に茶人として知られる松江藩7代藩主の
松平不昧(ふまい)公(1751〜1818年)の好みで家老の邸内に建てられた茶室です。
維新後東京や松江を転々としますが、
1966年(昭和41)の不昧公150年祭を機に現在の場所に移されました。

松江の地は不昧公の影響を受けて、現在も茶道が大変盛んです。

                 参考画像






ここから階段を登ります。

                             参考画像 Wikipedia


明々庵へのアプローチです。




茅葺の入母屋造りの明々庵です。







別棟の広いお座敷に上がってお庭を拝見です。




松江のお菓子とお抹茶を頂きました。




明々庵は松江城を望む高台を選んで移築されたたため大変贅沢な眺望です。
五月の花が満開でした。





《普門院 観月庵》


普門院 は今から約400年前、松江開府の祖・堀尾吉晴公が
松江城鎮護の寺として建立しました。

1801年に境内に建てられた茶室「観月庵」には
7代藩主松平不昧もたびたび訪れ、茶室の丸窓から観月のお茶を楽しみました。
小泉八雲もここでお茶の手ほどきを受け、近くの川は怪談「小豆とぎ橋」の舞台にもなったそうです。












松江が茶道が盛んな落ち着いた土地柄であることがよくわかりました。


ー続くー