03 Mar. 2012

「プラハ・レポート3」 追補版

忘れた頃に投稿アリ!?

ヴァンパイア v.K.

狭い道にトラムが走っていると、市民生活が間近に見えて楽しい。
長崎市の路面電車は、出島の近くにそんなところがあります。

トラムは早い。景色がよく見える。


花屋さん。いろんな言葉で花と書いてある。

中欧にある人口1000万人の小国は、好むと好まざると拘わらず、インターナショナルが生きる道。

再び旧市街中欧の市庁舎広場。コンスタンツ宗教会議で異端と断罪され、焚刑に処されたフスの像が建つ。

欧州最古(ということは世界最古?)プラハ大学教授でとても聡明な、立派な人だったという。

教会から向こうはユダヤ人街でした。プラハのユダヤ人街はヨーロッパでも有数の大きなもので、旧市街の西北1/4を占め、背後はヴルタヴァ川です。

ユダヤ人街入り口はフランツ・カフカ通り。そこの角にあるカフカの像。
彼はドイツ系ユダヤ人。でもユダヤ人としての自認は、あまりなかったようだ。
仕事は事務員か、役人か、臨時雇いの教師だったかな?覚えてません。

女にもてない、小説は売れるはずがないと、卑屈でネガティヴ思考。
没後こんなに評価されるとは思っても見なかったでしょう。41歳くらいで結核のため早世した。

いよいよ旧ユダヤ人街にはいる。シナゴーグがある。

12 Jan. 2012

「プラハ・レポート2」 追補版

ヴァンパイア v.K.

編集長「プラハの続きはいつ出るとや?」

v. K. 「ベトナムで盛り上がっとるけん、まだゆっくりよかろうと、、、はい、出します!」

お待たせしました。



プラハ旧市街広場

時間は午後8時頃。夕日に影がこんなに長い。

夏至直前だったから、この頃の日没は午後10時頃。



左方の派手な装飾の建物は20世紀初め頃はドイツ系住民が進学するギムナジウム(普通科高等学校)で、フランツ・カフカはここに学びました。

右側教会前の建物にアルフォンス・ミュシャと書いてある。ミュシャはパリに出てポスター風美人画で一世を風靡しました。

教会はティーン教会と言います。百塔の町プラハと言いますが、この教会だけで塔の1割くらい占めている?

教会へ入るには前の建物の中を通り抜けてゆく。法善寺横町の水掛地蔵あたりの雰囲気に似ている。

上掲写真はプラハ市庁舎と、有名な天文時計です。

時計は15世紀にまずここに設置され、その後徐々にいろいろな機能が付け加えられていった。

故障して数十年間止まっていたこともあった。第2次世界大戦中にはドイツ軍の砲撃によって甚だしく破壊された。

何が時計に表示されているのか何回か説明読んだが、複雑すぎて覚えきれない。

天文学、数学、哲学、工学、機械技術等、叡智と科学の結晶であることは解る。市庁舎も100年か200年毎に左側に増築されていった。

この3棟だけ見ても右側の石壁むき出しのゴシック様式から、左側窓の広いのルネサンス風へとモダン化している。

天文時計上部: 新約聖書の12使徒が次々に窓に現れる。

これは時代が下がって19世紀に設置された。中央の石造りの天使は、、、よく解らない。

上部の鳥は精霊の象徴鳩かと思っていたら、鶏だそうな。時計文字盤周囲には星座を現す動物。

文字盤: アラビア数字は日没から翌日の日没までを24等分して時刻を現す。ローマ数字は通常の時刻を表示している。

ローマ数字の12時とアラビア数字の12時は合っていない。アラビア数字の時刻は一日の長さが微妙に異なる。

骸骨(死に神)は死を表すだけでなく、時をも表している。

毎正時骸骨は下に向けていた左手掌を上に向け、あるいは上に向けていた手掌を下に向けて、持っていた砂時計を動かす。

同時に右手に握った鉄の紐を引いて、時計上部にある鐘を鳴らす。死に神も観光客サービスはおろそかにしない。

骨盤の大きさ、形状からして死に神はたぶん男性だろう。いや、神だから性はないのかな?

股関節脱臼起こしているようにも見えるので、長年ご苦労様と、つい、いたわりたくなる。

続く、、、であろう・・・・・!?


下記は昨年掲載の分です。

23 Oct. 2011

ヴァンパイア v.K.

「プラハ・レポート」

2011/10/21(金) 22:48 アップ

(Koharu's Web 2003年2月号で、拙著の「プラハの春」紹介は続きます)

・・・そして雨の中、主人公は故障して動けなくなった東ドイツ製中型車ワルトブルクを見つけ、そこに運命の出会いが待っていました。
車の中で途方に暮れていたのは美しい女性とその娘。実は女性は夫が東ドイツ政府高官でありながら反体制活動を続けるドイツ人女性でした。
当時は日本国旅券に北朝鮮と東ドイツへの入国は出来ないと、わざわざ明記してあった時代です。
話は一気に面倒なことになりそうです。
ためらいつつ警戒しつつも放ってはおけない主人公と、ためらいつつ遠慮しつつも、熱を出した娘のことを思えば好意に甘えざるを得ない女性は、
一台の車でプラハに向かいます・・。


写真はプラハ城下、支配階級が住む町の中心広場です。25年前と比べるときれいになり、タクシーがいっぱい並んでいて、写真には写っていませんが
昔はなかったカフェ、レストランが路上至る所にテーブルと椅子を並べています。ただ、写真中央に入ってきたトラムは東欧ブロック時の旧型のようだ。見覚えがある。

2011/10/21(金) 22:35

チェコスロヴァキア(当時)は1989年のビロード革命によって社会主義に訣別しました。
その時以来ここプラハ城にはチェコ共和国(現在)大統領府が置かれています。

Koharu's Web 2003年2月号で、拙著は春江一也作「プラハの春」を紹介しています。以下その一節。

・・・物語は在プラハ日本大使館付外交官である主人公がヴィーンでのイースター休暇を終えてプラハに帰るところから始まります。
季節は天候の不安定な4月。天気は下り坂、激しい雨になる。国境を越えるところで小説最初の緊張が始まります。
雨の中閑散としたオーストリア側国境で、顔見知りとなった国境警備官にコーヒーを勧められ、数百メートル進んだチェコ側では防御壁、
監視塔、遮るものが取り払われた草原、犬を連れ自動小銃を抱えた警備兵、高いフェンスと鉄条網、地雷原に守られた物々しい国境が
待っている・・・(ああ、これは私達が東ドイツに行ったあの時と全く同じだ。)

2011/10/21(金) 22:16

(以下は再びKoharu's Web 2003年2月に載せた拙著の引用です)

・・・麗しのプラハ。モラヴィアの穀倉が、ボヘミアの森が、豊饒の実りを捧げる百塔の都。ヴィーンほど厚化粧でもなく、ドレスデンほど多くを失うこともなく、
ミュンヘンのように田舎者でもなく、ベルリンのように成り上がりでもない。カレル橋に立つ聖フランシスコ・ザビエル像を川面に映し、ヴルタヴァ川は滔々
と流れます。見上げるプラハ城はハプスブルク以来の歴史を今に継ぎ、壮麗なるスペインの間は、ビロード革命によるチェコスロヴァキア連邦共和国の
新生を見守りました。開祖ヴァーツラフの栄光を今に伝えるヴァーツラフ広場は甦った平和と繁栄をいつくしむ人で賑わい、旧市庁舎の天文時計は、
泰西最古プラハ大学以来の叡智を凝集するかの如く時を刻みます。そしてチェコスロヴァキアの工業技術には歴史的に非常に高いものがありました。
第一次世界大戦で連合軍をさんざん悩ませた大砲と機関銃、揺籃期以来のシュコダを中心とする自動車産業など、この地方はハプスブルク帝国以来の
重要な工業地帯でした・・。


写真はプラハ城の城壁から見たプラハ市街です。

2011/10/21(金) 22:06

(以下はKoharu's Web 2003年2月に載せた拙著の引用です。久しぶりに読み返しちゃった)

・・・「プラハの春」動乱は1968年のことですが、大学生だった私はよく覚えています。ドプチェクやスボボダという名も覚えています。
朝日新聞夕刊「フジ三太郎」で取り上げられたことも覚えています。私の内面でソ連に対する嫌悪感を燃え上がらせた事件でしたが、
チェコスロヴァキア(当時)は遠い国で、将来自分がその国を訪れるなど、考えもしませんでした。実際には社会主義政権末期、縁あって
プラハを訪れましたが、その美しいたたずまいに一目で虜になってしまいました・・。


そして今回はそれから25年ぶりに訪れたプラハです。


2011/10/17(月) 01:00

カレル橋は交易、軍事上重要だっただけでなく、土木工学史的にも、芸術的にも重要でありました。
橋の欄干上にはカトリックの聖人の石像が並んでいます。デザインはバロック的なので、おそらく橋の完成より時代が下って設けられたのではないかと思います。

これはフランシスコ・ザビエルの石像で、アジア系キリスト教徒に担われています。

青空に飛行機雲が幾筋も伸び、きれいですね。プラハは北緯50度に位置しますが、これはカムチャツカ半島南端に相当します。
その様な高緯度で内陸性乾燥気候であることが飛行機雲を描かせるのでしょう。

2011/10/17(月) 00:39

25年前、当時のチェコスロヴァキアがまだ共産圏に属していた頃来たときも、プラハはほどほどに観光地でした。今はもの凄い観光客で溢れています。

今私は川の上流、南を向いています。プラハはヴルタヴァ川を挟んで東西に分かれていますが、川の東側平坦な土地に広がるのが庶民の街、博多に

相当する部分。写真背景は西の丘に広がる支配階級の街、いわば福岡です。丘の上にプラハ城が見えます。

2011/10/17(月) 00:17アップ

先週仕事を一つ終えて時間が空いたので編集長との約束を果たすべく、レポートをいたします。ただ次の仕事の予定があり、あまりゆっくりもしていられないので、

順不同でバランス考えながらレポートします。

チェコのプラハを南から北に流れるヴルタヴァ川。川はドイツに入るとエルベ川と名前を変え、ドレスデン、ハンブルクを通って北海に注ぎます。

そのヴルタヴァ川にかかるプラハのカレル橋というと、中世から広く欧州中に名を知られた重要な橋でした。

以下にウィキペディアの記載を紹介します;

ヨーロッパに現存する最古の石橋。神聖ローマ皇帝カール(チェコ語でカレル)4世の治世下1357年に建設が始まり1400年に完成した。

1841年までプラハ旧市街とその周囲をつなぐ唯一の橋であった。また、西欧と東欧の交易ルートとしてプラハが重要な地位を占めるようになった。